もしもベルリンに原爆が落ちていたら――知られざる地下シェルターを見学松田雅央の時事日想(1/3 ページ)

» 2011年10月11日 12時38分 公開
[松田雅央,Business Media 誠]

著者プロフィール:松田雅央(まつだまさひろ)

ドイツ・カールスルーエ市在住ジャーナリスト。東京都立大学工学研究科大学院修了後、1995年渡独。ドイツ及び欧州の環境活動やまちづくりをテーマに、執筆、講演、研究調査、視察コーディネートを行う。記事連載「EUレポート(日本経済研究所/月報)」、「環境・エネルギー先端レポート(ドイチェ・アセット・マネジメント株式会社/月次ニュースレター)」、著書に「環境先進国ドイツの今」、「ドイツ・人が主役のまちづくり」など。ドイツ・ジャーナリスト協会(DJV)会員。公式サイト:「ドイツ環境情報のページ


 ドイツの首都ベルリンの地下には人知れぬ迷宮が広がっている。第二次世界大戦の防空壕に加え、東西冷戦当時には対ABC兵器用の巨大な地下シェルターが整備され、もしもの瞬間を静かに待っていた。戦争の危機が去った現在、シェルターは役目を終え、一部が歴史を物語る博物館として公開されている。

通り沿いに展示されている第二次世界大戦時の1人用シェルター(左)、第二次世界大戦時の防空壕に描かれた表示「非常出口」(右)

非情な予測

 ブルンネン地区の地下シェルター入り口は、何の変哲もない鉄筋コンクリート製の小屋だ。人通りの多い市街地の一角にあり、現在は広告塔代わりに使われるだけで行きかう人が気にとめることもない。

 案内人に入り口の鍵を開けてもらい薄暗いコンクリートの階段を地下8メートルまで降りると、小さなホールと分厚い鋼鉄製の扉が現れる。非常時には、まさに生死を隔てる扉であった。

 非常時とは共産圏によるABC兵器(核兵器・生物兵器・化学兵器)の攻撃であり、約2000人を収容できるシェルターは空調設備を備えている。日本人も冷戦時には漠然とした不安を持っていたが、市民用シェルターの建設や訓練までは踏み込まなかった。東西冷戦の最前線にあったベルリンの想定は、そんな日本人の目には過酷に映る。

 ベルリン中心部に原爆が落とされたとして、ブルネン地区であれば(原爆の大きさによるが)例えば15%の市民が死亡し50%が負傷すると予想されていた。サイレンや緊急放送を聴いた市民がここへ駆けつけたなら、10分くらいでシェルターは満杯になっただろう。入り口に詰め寄る市民を前にして、いったい誰がどうやって冷徹に扉を閉めたのであろうか。

 こういったシェルターは、当時ベルリンに23カ所設置され、合計3万人分のスペースが確保されていた。人口に比較すると極端に少なくわずか1%を収容できるに過ぎない。非常時用のシェルターを備えた国としてはスイスがよく知られるが、そこでは住宅のシェルターも含め今もなお100%を超えるスペースが用意されているというから、それはそれで驚きだ。

ブルンネン地区の地下シェルター入り口
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