もしもベルリンに原爆が落ちていたら――知られざる地下シェルターを見学松田雅央の時事日想(2/3 ページ)

» 2011年10月11日 12時38分 公開
[松田雅央,Business Media 誠]

待ち受ける過酷な状況

 シェルターに入れるかどうかは早い者順だった。しかし、運よくシェルターに入れたとして、そこに待ち受ける状況は過酷だったに違いない。このシェルターは最長48時間の避難を想定したもので、給食設備もトイレもなかった。救助が間に合えばいいがそうでなければ……。

 空気は外気をABC兵器用フィルターに通して使い、電動ファンが壊れたときのため手動でファンを回す装置もあった。2000人が生き延びるためには電気技術者に限らず、医療、消防、警察、軍事などの専門家を必要とするはずで、そういった人材は統計的に自然とそろう、というのが設置者のシナリオ。つまり不特定多数の市民を2000人も集めれば、必ずさまざまな職種や専門知識を持った人がいるはずで、それらでチームを編成することになっていた。

 このシェルターは「NPO ベルリン・地下世界(Berliner Unterwelten e.V.)」が州から譲り受け、歴史的遺産として管理、公開しているものだ。冷戦時のシェルターの他にも第二次世界大戦時の防空施設、古い下水道施設など、普段は決して人目に触れることのないベルリンの地下施設見学ツアーを主催している。

 シェルター内の展示室の壁には80年代初頭に米国の旅行業者が作った、こんなポスターが貼られている。「欧州がまだあるうちに、欧州ツアーをご予約ください!」。今にしてみればブラックユーモアだが、当時の欧州は本格的な戦争と破壊の危機と対峙していたわけだ。

地下鉄駅をシェルターに

 ブルンネン地区の地下シェルターは第二次世界大戦当時に防空壕として造られたものを冷戦時に改造したもので設備は十分と言えない。それに対して数キロ離れた地下鉄「パンク通り駅」のシェルターは近代的だった。

 ここは地下鉄駅をそのままシェルターとするもので、非常時には4カ所ある線路のトンネル口と、2つあるある地上出入り口を巨大な扉で閉鎖し、医療施設、トイレ、給食設備、簡易ベッド寝台、気密を保ったまま外部と出入りできる特殊な出入り口も備えていた。駅に停車している車両を寝台車とするだけでなく、線路上、ホーム上に簡易ベッドを組み立て、3000人を2週間収容できる規模だった。

非常時には車両とホームに簡易ベッドが置かれることになっていた(左)、地上出入り口を閉鎖する厚さ1メートルの頑丈な扉(茶色のパネル部分に収納、右)

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