いずれにせよ、どんな観念を持つかは人生の一大事です。どんな知識を持つか、どんな技能を持つか、どんな会社に入るかより、はるかに大事です。
私は教育分野の仕事をライフワークにしたいと思い、8年前に独立しました。私は「健やかな観念」こそが個人と社会に必要だと思い、「働くこと×健やかな観念」を自分の中のキーコンセプトにして企業研修の場で学びのプログラム作りを始めました。
私がここで言う「健やかな」とは、生き生きと強い、素直である、明るく開けている、善的なことに向かっている、自然と調和している、などの意味合いです。
そうした健やかな観念を涵養してくれる古典的な言葉は世の中にたくさんあります。先達たちが残してくれた宝石を1つ1つ拾い集め、より良い仕事を成すための学習プログラムという首飾りに仕立てる。それが私の仕事になりました。
例えば……
……これらの言葉を文字面(もじづら)で理解するのは簡単です。しかし、肚で読む(=観念に落とし込む)ことは簡単ではありません。しかも普段の仕事につなげて考えることも難しい。そのために、私は玩具のレゴブロックを使ってシミュレーションゲームをやったり、ドキュメンタリー番組や映画を観ながら討論をやったりします。
研修作りの方法論の観点から言えば、「その格言なら知っているよ」という知識を観念に変えていくために必要なことは、心が活性化している状態、もっと言えば魂が何かを求めて動き出す状態を作ることです。それは楽しく何かに没頭している場や、困難を受けて真剣に考えようとしている場を疑似的に設けることです。
そこに普遍的で強い力をもった言葉をすっと差し出すと、敏感になった心の琴線に響いていき、しみていきます。そしてそこから原理原則的なエッセンスを各自から引き出させ、現実の仕事、現実の生活にどう応用ができそうかを考えさせる──ここまでやって「知識→観念」の変換作業の半分でしょうか。あとは、実際、ひとりひとりがそれを糧にいろいろな現実問題を乗り越えていってようやく自身の観念として肚にすわっていきます。
3・11以降、私たちはメディアを通し、あの荒漠とした被災地でたくましく再起をはかる人たちの姿を数多く目にしてきました。
南アフリカ共和国の心臓外科医であるクリスチャン・バーナードは、かつてこう言っています。
「苦難が人を高貴にさせるのではない。再生がそうさせるのである(“Suffering is not ennobling, recovering is”)」
確かに、苦難自体が人を高めるというより、苦難を乗り越えようとするその過程で、人は強く、賢く、優しくなっていくのだと思います。
被災から立ち上がった人たちは、まぎれもなく、自分の内で強い観念を起こし、そこから再生の意志を奮い立たせた人たちです。私がテレビ報道から耳にしたのは、「この震災にも何か意味があるに違いない」「ここから立ち直り、教訓を未来に伝えていくことが自分たちがやれる最大のことだ」といった勇気に満ちた声でした。こうした観念を起こすにはすさまじいエネルギーを要したでしょうが、この再生途上にある人の姿こそ高貴なのだと感じました。
観念は一様ではありません。感情的な思い込みから、無意識の思考習慣、思想的・宗教的な信念まで、さまざまな観念が1人の人間の内で、そして社会で、複雑な模様を渦巻いていきます。
あるものは安易に流れ込み感染を広げ、あるものは試練を経て獲得され静かに感化の波を起こし、あるものは悲観的で、傍観主義で、利己的で、あるものは楽観的で、挑戦主義で、利他的で、これらが四六時中せめぎ合いをし、勢力争いをします。そして、どんな観念が支配的になるかで、個人の生き方も社会の様相も決まる。
いずれにせよ、観念が人を作り、個々の観念が社会を作ります。知識に肥えていても、観念にやせているという人がいます。同様に、物質は豊かだが、観念の貧しい社会もあります。私たちは自身の内部に広がる無限の観念空間の開発にもっともっと目を向ける時に来ていると思います。(村山昇)
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