ある出来事をどうとらえるか?――観念が人を作る(2/3 ページ)

» 2011年09月16日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
INSIGHT NOW!

境遇のしもべになるか、境遇を土台にするか

 私個人のことを言えば、私は子どものころから身体が丈夫ではありません。いわゆる虚弱体質の部類で、ともかく飲食するにも、活動するにも無理がききません。すぐにお腹をこわす、すぐに風邪を引いて熱を出す、とそんなようなありさまでした。大人になってからは何とか毎日仕事生活を送れるような状態にはなりましたが、それでも私は常にやせすぎでひ弱な身体に神経をつかう日々を送っています。

 私は小学校のころから自分のそうした身体の境遇に落胆していました。母も同じようにやせて身体が弱い方だったので、「ああ、こんな親のもとに生まれた自分に運がないのだ」と誰を責めるでもなく、ただ自分の身体に落胆していました。

 小学校5、6年のころだったでしょうか。そんな時に母は「健康だと健康のありがたみが分からへんでしょ。病弱な人はそのありがたみが分かる。これはすごいことと違う? 弱い人は弱い人の気持ちが分かる。だから、やさしい人になれる」と言ってくれた。

 その言葉を聞いて、私は「そうか、弱いってことは、その分、みんなが感じられんことを余計に感じられるんや」ということに気が付いたのです。今から振り返ると、まさに私自身がABC理論で論理療法のきっかけを得た瞬間でした。

 つまり、「虚弱な身体に生まれた」という出来事(A)に対し、「虚弱な母のもとに生まれた自分に運がないのだ」という受け止め方(B)が、自分を落胆(C)に導いていたのです。(A)→(B)→(C)という因果関係です。(A)→(C)ではありません。

 そこで私は母の言葉によって、(B)を変えることができた。「弱いからこそ、多くを感じられる」という受け止め方(B)になった結果、「虚弱だったとしても、強くやさしく生きていこう」という心持ち(C)になったのです。心持ちが180度変わったわけですが、それが起きた前も後も「虚弱な身体に生まれた」という事実(A)は何ら変わっていません。

私たちは各々の解釈でとらえた世界を生きている

 私が本記事で言いたいのはこのことです。人は生きていく過程で、それこそ無数の出来事や事実に遭遇します。それらの出来事や事実をどうとらえ、どう評価するか、そしてどう体験するかはすべて観念という名の“フィルター(ろ過器)”の影響を受けます。「世の中に事実はない。あるのは解釈だけだ」という言い回しがありますが、まさに私たちひとりひとりは、各々の解釈でとらえた世界を生きているのです。

 ですから、健やかな観念を持った人は、健やかな方向に物事をとらえ、評価し、体験をします。結果的に健やかな人間となり、健やかな人生を送っていきます。もっと言えば、健やかな観念が社会に満ちると、健やかな社会となります。

 逆に、冷笑的な観念を持った人は、結果的に冷笑的な人間となり、冷笑的な人生を送ります。冷笑的な観念が世の中を覆うと、冷笑的な社会になります。観念というのは、それほど根本的に強力なものです。

 人生をよりよく作っていくためには、もちろん意志や努力や想像が必要ですが、そもそもその意志を起こせるか、努力するエネルギーを湧かせられるか、明るく想像できるか、それらを大本(おおもと)で支配しているのは観念です。

 「何だ。じゃ、人生明るく生きるためには“ポジティブ・シンキング”だ」と思われるかもしれません。私はポジティブ・シンキングには肯定的ですが、昨今ではそれが単なる気分転換術として紹介される向きがあるのが残念です。

 もちろん観念もポジティブサイドで持った方が良いに決まっていますが、観念を作ることは、功利的な術よりも深いものですし、シンキング(思考)よりも根っこにあります。観念は、その人の内に複雑に構築される信条体系・価値評価システムで、一朝一夕にはできあがらないものです。

 言ってみれば、それは心の内の地層のようなもので、読書やら交友やら、見聞やら体験やらで、長い時間をかけて積もり、ずどんと居座ってしまうものです。意志的な努力を継続してやっと醸成できる観念もあれば、知らぬ間に染まってしまい、それから脱色するのがなかなか難しい観念もあります。

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