なぜベルクには人が集まるのだろうか? 新宿駅にある小さな喫茶物語(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(2/7 ページ)

» 2009年06月26日 07時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

飲み歩いた浪人時代――迫川さんとの出会い

 祖父の法務大臣時代に生まれ、新宿ステーションビルに初代ベルクがオープンしたころ、小学校時代を過ごした井野さんは、どんな子どもだったのだろうか?

 「ぼんぼんだったですね〜」と笑う。

 小学校・中学校と、地元の区立校に通っていた井野さんは、1976年、新設の都立光丘高校に1期生として入学。

 「そのころは、ビートルズをよく聞いていました。そして私自身も、アーティストになれればいいなあなんて思っていました。バンドをやったりして、楽しかったですが、受験勉強とかは全然、やらなかったんですよ。

 高校卒業後は、祖父の屋敷に身を寄せまして、『とりあえず大学にでも行っておくか』って気分でした」と苦笑する。

 しかし、その当時の受験戦争(「受験地獄」と称された)は、現在の大学全入世代の想像を絶するもので、偏差値トップの都立高校でもクラスのほとんどが浪人し、3分の1以上は2浪以上するのが当たり前の状況だった。

 当然のごとく、井野さんもそうした苛酷な現実に直面する。

 「結局、3年浪人した末に、1982年、早稲田大学の社会科学部(通称「社学」)に入学しました。でも私の人生で、この浪人時代が、一番たくさんお酒を飲みましたね(笑)。中野あたりを中心に毎日のように飲み歩いていました」

 そして、この時期に「運命の出会い」があった。仕事と人生のパートナーとなる迫川尚子さんである。

 迫川さんは、種子島生まれ。ココ・シャネルに憧れ、女子美術大学(短大)に進学し、当時、同短大の造形科衣服デザイン教室に属していた。

 「最初は、飲み仲間って感じのつきあいでした」と、2人は微笑む。

「高等遊民」的アイデンティティを自覚

 「大学時代も、相変わらず街を徘徊(はいかい)しては酒ばかり飲んでいましたね。ただ、アーティストへの憧れはありましたから、エッセーなどは自分なりに書いていましたし、当時、バブルの走りのころで、脚光を浴び始めていたコピーライターの仕事にも興味がありました」

 しかし井野さんは、毎日のように飲みながらも、社会における自分自身のポジショニングについて、思索を深めていたようだ。

 「自分は、社会階層的には支配階級の一員です。でも、職業的には何か1つに規定されたくない。そんな風に思いました。それに人の心も分からないし、アーティストとしてもダメだな……と。そんな感じで、結局、就職活動も一切せず、2年留年しました」

 これは世間の尺度で言えば「モラトリアム」ということになるのかもしれない。しかし筆者はこの話を聞いていて、ふと夏目漱石の小説『それから』や『こころ』に登場する「高等遊民」を思った。高等遊民とは、裕福な家庭に育ち、特定の職業に専従することなく、芸術・文化・美食などに傾倒して、粋で洒脱な生活を送っている人々である。

 井野さんは、現代における高等遊民なのではないか? とご本人にぶつけたところ、笑って同意してくれた。

 1988年、バブル絶頂のころ、井野さんは通算5年遅れで、大学を卒業。実は当時、彼は、三鷹市にある学習塾でアルバイトしていたという。

 「電話営業の仕事なんですが、営業成績はすごく良くって、なぜか月収30万円を稼ぎ出しちゃったんですよ」と笑う。

 「チラシ作りも好評でしたし、オリジナル教材も評価され、何となく自分の才能に気付きましたね。でも、塾業界の仕事は自分の天職ではないって感じていました。なにしろ、私は日本の受験システムそのものに良い感情を持っていませんでしたから」

 すでに1982年、詩人の父親は世を去っており、ベルクは母親が承継し、弟たちが手伝っていた。しかし井野さんは一切、ノータッチだった。

 「サービス業だけはやりたくなかったんですよ。人は好きだけど、遠くから眺めている方が良かった。当時の私は、どうしてよいか分からなくなると、1人で新宿付近をさまよい歩いていました。いろいろ行きましたが、なぜか新宿に引かれたんです」と回想する。

 人は大自然に触れると、自分と宇宙の一体感を実感し、自分の人生とか仕事といったことの小ささを感じ、気分は解放される。しかしそれとは逆に、自分自身を雑踏の中に置くと、急に孤独を実感し、自分の内面へと思いは沈潜してゆくものだ。

 きっと井野さんは、モラトリアム状態の中でもがく自己の内面と向き合うために、新宿のような混沌とした雑踏を心のどこかで必要としていたのだろう。

 そして、そのプロセスで、人生を変える発見をする。

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