渡米当初の村田は「英語は中学生レベルと言えるかどうか」といった感じだったが、荒波にもまれたおかげで今ではすっかり向上。陰湿なイジメにも屈さなかった逞(たくま)しき精神力によって急速に進化し、ほとんど不自由なく会話できるレベルにまで上達した。メジャー初登板後、米メディアに通訳なしで1人で堂々と対応していたのはまさにその証明である。
並みの人間ならばあっさり「ギブアップ」してもおかしくないマイナー生活を4年以上も継続できた理由は他にもある。「自分からギブアップはしない」という信念があるからなのはもちろんだが、それに加えて村田は“見返す”という強い気持ちを渡米した時からずっと失わずにいた。巨人で「クビ」を言い渡した当時の幹部に対して燃やし続けていた“リベンジの炎”である。
大阪体育大学時代は3年生の時に全日本大学野球選手権大会で抑えとして起用され、大会MVPに輝くなどチームの初優勝に大きく貢献。2007年のドラフトではその経歴が大きくモノを言って注目株となり、“外れ外れ1位”でありながら巨人に1位指名されて入団。
ところが、巨大戦力の壁に阻まれてなかなか芽が出ず、二軍においても本領発揮とは言い切れないような中途半端な結果ばかりが続いていた。それでも当時のチームスタッフの誰もが“稀有(けう)なぐらい真面目な性格”と称するほどのストイックなタイプであったことから「もともと才能は持っている選手だし、長い時間をコツコツとかけていけば必ずブレイクする」と言われ、現場レベルでは期待もかけられていた。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング