真摯な態度で学び、それを苦労の末、身につけることで新しい自分になることに喜びを見出す――。確かに、それはドラッカーの言う「フィードバック」のことに他ならない。
さらに言えば、ここで出た「君子」という概念も然りだ。これは孔子が考える、「徳治」(徳によって世を治める)ができる理想の国家君主のことなのだが、実はドラッカーも『マネジメント』の中で同じようなことを述べている。それは「マネジメント」を行うために必要不可欠な存在であり、最も必要とされる資質は、「フィードバック」を続けていく「真摯さ」――。
もうお分かりだろう、「マネージャー」である。実際、ドラッカーの言う「マネジメント」というのは、孔子が述べる「徳治」と双子のように瓜二つなのだ。
このような両者の共通点が、本書ではまるで推理小説のように次々と明らかになっていくわけだが、そもそも、なぜ2500年も時を隔て、民族も違う2人の思想が似通うのかという疑問が浮かばないだろうか。
実はそれは両者が生きた「時代背景」が関係している、と安冨氏は考察する。
孔子が『論語』を生み出した時代は、「秦」という巨大な官僚組織・軍隊がさまざまな民族を統制していくという激動の時代だった。それまでは比較的のんびりとした国だったのに、圧倒的な武力を盾にして巨大国家ができていく。法律やモラルも今と違うので、逆らう者は容赦なく殺される。これを孔子の流れをくむ孟子は「覇道」と呼んだ。孔子は「覇道」を憎んだ。だからこそ、力ではなく、「徳治」(マネジメント)ができる「君子」の必要性を説いたのである。
一方、ドラッカーも「マネジメント」ということを考えたのも「覇道」を憎んだからである。彼の時代では、それを「ファシズム」と呼んだ。
若きドラッカーはナチスドイツが台頭する、フランクフルトにいた。彼はファシズムを目の当たりにして、ファシズムを憎み、現代社会がどうすればファシズムに対抗することができるのか、という問いに対して向き合い続けた思想家でもある。
事実、『マネジメント』の冒頭にはこのように述べている。
成果をあげる責任あるマネジメントが、専制に代わる唯一のものであり、それへの唯一の防衛策である(Management,p.x)
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング