その日の放課後。空手部の部室で練習前のミーティングがあった。
小さいけど部室もある。10人も入ってパイプ椅子を広げたらもうぎちぎちだ。
道着に着替えて、みんな集まった。
部長で3年生の、よっち先輩が落ち着いた優しい話し方で言った。
「そっか、ゆっきーが文化祭の実行委員になったんだね。おめでとう。それ、喜んでいいんだよね?」
私は、はい、と返事した。笑顔でうなずいた。
「はい、私なんかでいいのかなって気もしますけど」
そしたら、はじけるような元気な声があがった。
「いいさー! ゆっきーだったらきちんとやるし、クラスのみんなを引っ張っていけるって。ゆきさまー! って声、うちのクラスからも聞こえたよ? あ、そうだ、部長、もうすぐ引退ですよね。このままゆっきーを部長にしちゃおっか!」
ちょっと冷やかすようにそういったのは、私と同じ2年生で隣のクラスのマエちゃん。ちょっと大げさな感じで、他のメンバーに「ねぇ! そうでしょ?」と同意をとるように言った。みんな、にこにこして、うん、とした。頑張って! ゆっきーなら大丈夫! と口々に言った。
部室には、もちろんキョンちゃんもいた。
彼女は、テーブルを囲んだ後ろの方で、さっきのホームルームのときと同じようにうつむき加減に、ただうなずいていた。
彼女も道着に着替えていた。長袖のTシャツを中に着て、自分でお裁縫したのか左手の袖口の先から布を伸ばして輪っかみたいにして、指にひっかけて袖口がめくれないようにしている。それを彼女が、吃音、いわゆるどもりながら言ったのは「あまりきれいな腕じゃないから」とのことだった。
でも、1年の時、一緒に空手部に入った時にはそんなことしていなかった。
2年になって、この半年くらいでそうしていた。そしてそのころは、彼女に吃音は出ていなかった。彼女はお手洗いで着替えてくるらしく、みんなとは着替えない。これも、前はそうじゃなかった。
みんな、その理由はうっすら分かっているけど、言わない。私も言っていない。それが無言の法律だ。トラブルはない。以前のキョンちゃんを知らないからか、1年生の2人は、少し彼女を避け気味にしているけど邪険にもしない。でも、隣には座らない。
1年前のキョンちゃんとは似ても似つかない子がいることを、弾けるように明るくて、ほがらかな、楽しく思ったことをぽーんと話す女の子であったことを言わないようにする。そんなルールもセットになっていた。
みんなが口々に言う「頑張って!」が少し収まった頃合いに、よっち部長が言った。
「……ということで、ゆっきー、いいの? 今日話さなくって」
うまい進行だ。私は返事した。
「はい、そうですね。えーっと、ということで今年の文化祭、私が実行委員になったので空手部は何か出展しないといけないんですけど、何か案のある人、いますか?」
あっ、という顔をした子が何人かいて、顔を見合わせて、まじかー、という声が聞こえたけど、すぐに意見が出始めた。
ミカコが手を上げて、理知的なすっきりとした話し方で言った。
「みんなクラスの出し物もあるからね。イベントステージでの演舞はどう? こないだの都大会でもやったし、忘れないように練習に組み込んでおけば3カ月後でも大丈夫だよ?」
リーズナブルな意見だ。よっち先輩も、それはいいね、と言った。
長身でスマートなミカコは、秀才でもある。そつなくいろんなことをこなす。なるほどなぁと私は思った。いいねーと私も言った。
次に1年生のかおりんが言った。
「えー、でもせっかくの文化祭ですし、模擬店とか、そういうのどうですか? ペットボトルのお茶とか、冷やしておいたら人気出るんじゃないかなぁ」
かわいい感じの彼女。文化祭には模擬店というのは確かにそれらしい。
だが、かおりんの横にいた同じ1年のゆえちゃんが、えー!? という感じで、すごく元気にはつらつした感じで言った。
「えー? 何でお茶なのー! 何かもったいないじゃん。もうちょっと凝ろうよ。アイスとかどう? 9月だし手間も変わらないし、いいんじゃない?」
「そうだねー」
「そうねー」
いろんな声があがった。
私はそのどの案にも、いいねいいねといっぱい言った。
みんな、やりやすそうなことを言った。
でも、やりやすいから、なんてみんなひと言も言わなかった。
キョンちゃんも何か言いたそうだった。話し出すタイミングを狙っているのが見てとれた。でも、私は自分からキョンちゃんに聞くのは避けた。「私もそれがいいと思う」というようなことだったら、あえて聞くこともない。恐らく、彼女はそういうことを言いたかったのだと思うようにした。
みんなが言うことにうなずいていたから。
……でも、私は完全にそう思いきることもできなかった。私も、みんなと同じ血統書付きにならなければいけない。その方がラクだ。でも、キョンちゃんのことが気になり続けた。
だから、その日は何も決めずに稽古に入って、解散した。
私は、自分のこの中途半端っぷりも嫌だ。
榊のことだけ考えて生きていたいのに。
他のことはもっとどうでもいい私になりたいのに。
靴箱に、またラブレターのような手紙が入っていた。何だか気力が湧かなくて、入れたままその日は帰った。
その後もしばらく、私は出展内容を決めるのをためらっていた。
何回か、よっち部長から「いいの?」と聞かれたけど適当に返事していた。
よっち部長は、もしぎりぎり近くになっても演舞で済むと思ったのだろう。あまりせかすようなことは言わなかった。私が今日まで、何事もある程度きちんとしてきていることでの信頼もあったのかもしれない。次の部長のことも考えておいてね、とさらっと言われた。適当に、はい、と返事した。よっち先輩はそれについては、なんだかちょっと複雑な表情をした。
そうして1カ月少しが経った。
その日は部室の掃除当番になっていた。私と、キョンちゃんだった。このペアは案外珍しかった。前にキョンちゃんとお当番になったのは何カ月も前だ。
私たちは部室の掃除をした。たいして広くもないし、普段からみんなきれいに使っているからそんなに時間もかからない。
キョンちゃんとすれ違うたびに、ぷん、と、ワキガの臭いがした。
以前は、彼女はずいぶん気遣っていたのだと思う。でも、最近では制服もくしゃくしゃなことが多くて、両親と一緒に暮らしているはずだけど明らかに自分のことを気遣えなくなっていた。髪も汚れていた。
だからといって、そんなことは誰も言わない。気遣いといえばそうだし、それ以上に、彼女がこんな風になってしまったきっかけ、あの「犬くさい」の一件から、キョンちゃんは、特にクラスのみんなには相手にされない子になっていた。
高等部から入学してきたキョンちゃんは読書家で、特に国語は1年の最初のころは学年でトップだった。
彼女は、少し変わった子だった。
決して意識してやってるという感じでもなく、まず言葉遣いが変わっていた。自分のことを「おれ」と呼んでいた。彼女は親の仕事で東京に引っ越してきたらしい。地元の方言で、女性も自分のことを「おれ」と呼ぶらしい。
何かマンガの台詞みたいな感じで話す子だった。何というのか、印象的な言葉を前後の脈絡もなくぽーんと言って、「どうだ!」みたいにみんなの反応を待つようなことがあった。そのたびに、みんな上手に返答した。彼女はうれしそうだった。でも、帰り道に彼女がいなくなると「変わってるよね」と話したことがあった。私もその話に適当に乗った。
そう。彼女は、独特の感性で感じたことを、思ったままの表現で言う子だった。きっと、気持ちのほがらかさから、どう思われるからとか考える前に言葉が出る。それを私はうらやましく思ったこともある。
私は、キョンちゃんと比較的仲が良かった。榊のことばかり考えてるからか、「ミステリアスなゆきさま」とか手紙に書かれる私も、少し変わり者なのかもしれない。
でも、もちろんうちの学校の子は、そんなことであれこれ言わない。それどころか「みんな違って、みんないい」みたいなことを言う。でも、本当にそう思っているかどうかは分からない。だって、うまく話して傷つけないようにするなんて、無意識では難しい。私も毎日苦労している。そして、キョンちゃんはそういうことが、苦手だった。
いじめられるようになったきっかけは、はっきりしていた。私もその場にいた。
1年生の家庭科実習の時、ミネストローネを作った。私もキョンちゃんと同じ班だった。私たちの班のできばえは、正直良くなかった。多分誰かが何かを間違ったのだろう。臭いからして、ちょっと生臭い不思議なものができあがった。
みんな、私もそれをそのまま言うことを避けていた。そしてその時、彼女も「どれどれ?」というように、いつものマンガっぽい体の動かしかたでお鍋に顔を近付けて、ふんふんと臭いをかいで、みんなの方を向いて、にっこり笑ってひと言いった。
「犬くさい」
……これがきっかけだった。
その言葉に、内心自分が間違ったのではないかと思っていた子が、その瞬間の表情のまま、ぼろぼろっと涙をこぼして、わぁっと泣き崩れた。
周りの子たちは「大丈夫!?」「どうしたの?!」と駆け寄った。
犬くさい、と言ったキョンちゃんは、「あっ」という顔をした、そしてにやっと笑うような、照れ隠しするような、失敗したと思っているような、そんな顔で下を向いて、もう一度言った。
「おれ、そんなつもりでいったんじゃないんだよぉ」
でも、もう全部手遅れだった。
その後お皿に盛りつけてみんなでいただきますをする時間になった。そのお鍋の中のミネストローネは、うちの班ではあまり誰も食べなかった。「犬くさい」という言葉は強烈だった。
そう言ったキョンちゃんは、「うまいじゃねーか」と言いながら、ちょっと大げさなくらいによく食べた。おかわりもした。でも、もうだめだった。
帰りのホームルームで、キョンちゃんは手をあげて「ごめん」をした。先生がその時の次第を聞いた。先生も顔を白くした。彼女の立場はもっと悪くなった。彼女は、結局その場で叫んだ。
「……おれ、ぜんぜん分っかんねーよ! 悪かったよ! そんなつもりなかったんだよ! 雨に濡れた犬みたいな臭いがしたからそのまま言っちゃったんだよ! 間違ったんだよ! でも何でここまで言われなきゃいけないんだよぉ!」
その後、キョンちゃんと話す子は減った。特に幼稚舎からの子たちは彼女を避けた。
それまでも、彼女はファミレスで話している時も、大きな声で「うんこしてくる!」とかすぐにいう子だった。他にもいろいろあった。でも、その時はみんなあははと笑ったりもした。キョンちゃんもうれしそうだった。
彼女は、ちょっと変わっていた。でも、いじめられ始めたのはそれが理由ではない。要は「きっかけ」があった。それだけのことだった。だいたい、いじめられる理由なんて、そんなおかしなものはこの世にないはずだ。
仮に、私も含めてみんなそれを毎日注意深く避けているとしても。
それから半年もかからず、彼女から笑顔が消えた。
2年生でも私は同じクラスになった。
彼女は、おそらく陰で有名ないじめられっ子になっていた。
キョンちゃんは、自分のことを「あたし」と呼ぶようになった。ほがらかで楽しそうだった表情は、いつもうつむくようになった。話さなくなった。以前彼女に聞いた、子どものころにあったらしい吃音、いわゆる「どもり」が出るようになった。もっと彼女の話は分かりにくくなった。授業でも先生は彼女を意識して当てなくなった。
彼女の体質のこと。前だって、近くに寄るとほんの少しにおう時があった。そんなの珍しいものではないけど、こうなると彼女は「犬くさい」と言われるようになった。「言われた子の気持ちを考えてあげなよ」とまで。もう1年近く前で、条件も何もかも違うけど、でも、そう言われると彼女はどもりながら、「あたしそんなつもりで言ってない」「くさくてごめん」とか繰り返したけど、もう誰もそれは聞かなかった。
彼女は学校を休むことはなかったけど、国語の成績でもテストの時に彼女の名前を聞くことはなくなった。急にぼろぼろ泣くようになった。泣き声をこらえようとしているのか、声を出さないで泣き顔になっている時、下唇を突き出して、歯をむき出しにするような顔になった。私は見ないふりをした。
あんなに明るくて、ほがらかで、楽しくて、にこにこしていた、時々言葉の前後をぽんと省略して話す時があって、印象的な言葉をばんって言って、「どうだ!?」って顔をするような、あの彼女はいなくなった。
汚れた制服と、臭いも強くなって、変な顔で笑う、みんなのことにおびえる、吃音で上手に話せない、そんな女の子。
そして今、目の前でほうきを使っているキョンちゃんは、何だか部屋の隅の、おかしなくらいに細かいところのほこりを一生懸命に掃き出そうとしている。別にそこまでしなくても、と思うが、彼女は前からそういうことをする子でもあったから、あまり止めてはいけないとも思った。
私の方は終わった。
彼女はまだ、熱中して続けていた。
時間が経って、彼女が気付いた。私がいすに座って本を読んでいるのを見て、あわてたような様子で言った。
「ご、ごご、ごめん」
吃音が出た。話させてあげたいけど、正しく知りたいから、字に書く? と言った。彼女のプライドを傷つける気もするけど、以前、子どものころはこうした方が気が楽だったと彼女が言っていたのでそれを信じることにした。それは、彼女が元気な時の言葉だったけど。彼女は、うん、とうなずいた。私はほっとした。
私は聞いた。
「どうしたの?」
『待たせてごめん』
彼女のちょっと変わった筆跡。不思議と、彼女のもともとの話し方にも文字の印象は重なった。
「別にいいのに。終わった? 帰ろ?」
『うん。でもあたしと2人で帰らない方がいいと思う。先に帰って』
「何でそんなこと言うの。一緒に帰ろうよ。電車、途中まで一緒でしょ?」
『でも、あたし、ひとにめいわくかけるから。うまくはなせないから。ゆきちゃんにまで、きらわれたくない』
「何言ってるんの、いっしょに帰ろ。ほら、帰るよー」
『だめ!』
キョンちゃんは声を出して、次に字でそう書いた。私は、その雰囲気に圧倒された。笑顔を作って顔をゆがめて、彼女は書いた。
『あたし、もう前のあたしじゃないの。何であんなに楽しかったのか、うれしかったのか、もう分かんないの。いつでもちらって冷たい眼で見るみんなの顔ばっかり浮かんでくる。夜眠れないし、何もする気が起こらない』
「キョンちゃん……」
思えば、一緒に部活帰りに2人で帰ったこともなかった。みんなで帰る時、何人かいるうちの1人になっていた。それは、彼女が気遣ってそうしていたんだと思う
彼女はゆがんだ笑顔と口元で、そう言った。
1年生の時の、あの明るい表情の持ち主には思えない。正直、怖いとすら感じて、私は、そんな私を許せなく思った。
『見て』
彼女は、制服のブラウスの、左手首のボタンを外した。
いつものように、中には長袖のTシャツを着て、左手の袖の端に自分でお裁縫して付けた布を伸ばして、手の平の親指に輪っかにして引っかけて袖がめくれないようにしていた。お花のような刺しゅうがしてあった。彼女らしい、ユニークな形をしていた。彼女は、それもめくった。
もちろん私は、それで彼女がこれから何を見せようとしているのか予想がついた。だから眼をそらしたかった。でも、眼をそらしてはいけないものだとも思った。
彼女の言う方を見続けた。
彼女は、右手で書き続けた。
『あたし、こんなになっちゃった。私はどうしようもないくずなんだって思う。話すと人の気持ちを傷つける。くさくて汚くて変なの。みんな笑ってる。自分を傷つけてるときは、少し楽になる。だからやめられない』
左手の手首から、ずっとひじまで見える限り、刻むように切り傷が付いていた。そのうちいくつかはまだ真新しくて血がにじんでいた。絆創膏を貼っているものもあった。もう傷が古くなって、肌色になって盛り上がっているのもいっぱいあった。消えない傷になっていた。
水着とか、結婚式とか、大切な人との時も、彼女がこれを意識しない時間は訪れない。
私は涙が止まらなくなった。視線を離してはいけないと思った。
何でこんなことになるんだろう。
あの明るかった、楽しかった彼女を、誰がこんなにしたのか。
そう、私もきっと、その仲間の1人なんだ。
それを思うと、気持ち悪くなった。戻しそうになった。
私は気分の悪そうな顔をしたのだと思う。無表情に彼女はさっと袖を戻して、書いた。
『ごめんね。何だかゆきちゃんには話したかった。ごめんね。本当にごめん』
「ううん、違うの!」
私は、叫んだ。そうじゃない。そんなんじゃない!
私は、私が許せない。
目立たないように、できすぎることも、でき過ぎないこともないように。榊のことだけ考えて生きる、そのじゃまになることは何一つ起こらないようにしてきた。
でも、これは我慢できないことだった。
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