「結婚するなら東電社員」だったけど……原発城下町住民のいま東日本大震災ルポ・被災地を歩く(3/4 ページ)

» 2011年12月02日 08時00分 公開
[渋井哲也,Business Media 誠]

津波が来ると知り避難した小学校

震災直後の話をする八島敬校長

 3月11日14時46分、双葉郡富岡町の富岡第一小学校(八島敬校長)では授業が終わり、帰りの会が行われていた。1年生だけは下校が終わっていた時だった。大きな地震があり、余震が続いた。児童と職員は何も持たないで校庭に避難した。

 10数分後、町の広報無線で「大きな津波が来る」との放送が流れた。第一小学校は海から1〜2キロの地点にある。そのため、高台に逃げることになる。国道6号線を避けて北上。広報無線で指示のあった町の体育館に向かった。

 「泣いている子どもたちもいました。強烈な揺れでしたからね。校門が倒れていましたし、避難途中では古い民家の瓦が落ち、煙が立っていたのが見えました。逃げる時には子どもたちはみんな真剣な表情でした。子どもたちも何かを感じていたんでしょうね」(八島校長)

 体育館に避難すると、親が迎えに来た子どももいた。そこで親に引き渡した。津波で家が流れてしまった子どももいたが、犠牲者はゼロだった。

 その後、地震の影響で天井が落ちそうということで体育館の外に出される。テニスコート用のドームに避難するが、風が入ってくるし、砂ぼこりも立っていた。また寒いということで、富岡二中の体育館にバスで移動することになった。しかし、そこはすし詰め状態だった。

 次の日の朝まで親に会えない子どもは7人いたという。親自身も避難所を転々としたようだ。 

原発事故で情報が錯綜。郡山へ

 「1日経てば避難は解除になるだろう」

 八島校長はそう思っていた。しかし、翌12日の朝、「原発が危険」との情報が入って来た。まだ7人の子どもを親が引き取りにきていない。しかし、8時すぎに、バスで川内村へ避難することになる。

 「行くまで大変だった。ずっと渋滞で、通常は30分で行けるところが、3〜4時間かかったんです」

 富岡高校川内分校の体育館に避難したが、携帯電話は通じない。町の広報だけが情報源だった。お昼には着いたが、なかなか川内村に来れない子どもも多く、また親が迎えにも来れない。ただ、14時過ぎ、最後の1人の6年生の女子児童の親が迎えに来たという。地震発生から丸1日が経っていた。

 新聞が届いたのは13日。そこでようやく津波被害と原発事故のことを知った。14日にはラジオで「原発が危ない」ことが分かり、15日朝には「ここからも逃げないと危ない」ということになった。16日には郡山市のビックパレットに避難することになった。

 「携帯電話が通じず、最初はラジオの情報もクルマの中で聴いている人だけが分かっている程度で、体育館にいると情報がまったくなかった。体育館での対応は役場職員のみで、ほかにはボランティアを募っていました。高校生などの若い人が手伝ってくれていました。先生方も家族のもとへと帰しました。そのうち、情報が集まって来たのです」

 その後、先生たちも避難生活となる中、校長は先生たちの安否確認、担任は児童の安否確認をすることとなる。ただ、すべての児童と連絡が取れたのは4月上旬、約1カ月かかった。避難先に埼玉、東京、新潟など他県が多かっただけでなく、母親が外国人で、フィリピンや中国に避難した児童もいたからだ。

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