紀州南高梅のニューカマーがV字業績回復できた理由――勝喜梅・鈴木崇文さん(前編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(3/4 ページ)

» 2010年07月17日 00時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

満を持してのエース登板――若き日につちかわれたイノベーターマインド

 実は、鈴木さんは創業メンバーではなく、途中入社組(1997年)である。どのような経緯で勝喜梅に入ったのだろうか?

 「学生時代は一攫千金を夢見て、特許出願とか色々チャレンジしていたのですが、実社会を知らない悲しさで、結局、うまくいきませんでしたね(笑)。

 学校は、TBSの人気ドラマ『ホテル』(1990〜98年、高嶋政伸、紺野美沙子主演)の影響で、サービス業に憧れまして、ホテル専門学校に通いました。途中で1年間、シアトルでの語学研修があり、国内ではホテル・オークラなどで研修を受けました。

 1993年に卒業してからは、リーガロイヤルホテルに就職しました。リーガロイヤルホテル成田のオープニングスタッフとして赴任し、宿泊部門を担当しました。最後は客室のチーフにまでなりました。でも、3年経ったころ、『サービス業は、もういいかな……』という気持ちになりまして(笑)。それで退職し、以前から関心のあったグリーンツーリズムに方向転換しました」

リーガロイヤルホテル公式webサイト

 世界の旅行業は、「見学・見物」型から「体験」型へと次第にシフトし、とりわけ「グリーンツーリズム」(欧米では「アグリ・ツーリズム」と呼称)が、新しいトレンドになろうとしている時期だった。

 「それで私自身、英国やドイツを見て回っていたのです。でも、事情があって和歌山に戻っていた時、勝喜梅の創業者から同社の東京進出立ち上げメンバーとして誘われたのです。1997年のことでした」

 まさに、勝喜梅がじりじりと業績を落としていた時期での参加であった。一見、遠回りをしていたようにも見えるが、多様な分野での活動(一攫千金、ホテル、グリーンツーリズム)が、鈴木さんのその後のイノベーティブな活躍のベースを形成したことは疑う余地のないところだろう。

創業の原点に立ち返って経営革新に着手

 経営革新のポイントは、ずばり「ブランド再構築」と「販売チャネル革新」だった。

 ちょうど、この2002年、東京では江戸時代から続く高級果物専門店「千疋屋総本店」(中央区日本橋室町)が、中元や歳暮を中心とした従来型の事業構造からの脱却を目指し、「ブランド・リバイバル・プロジェクト」をスタートさせていた。販売チャネルの革新などを含むこの経営革新によって、同社の売り上げは対前年度比130〜140%に拡大した。いかに、日本を代表する老舗といえども、中元や歳暮ではない新しい事業の柱を構築することが求められる時代になっていたのだ。

千疋屋総本店公式Webサイト

 勝喜梅の社内はその時、どのような状況だったのだろうか?

 「経営陣が退陣し、社員たちにも定年退職や結婚退職などが重なって、従業員数は一挙に減少しました。そういうこともあって、社内には緊張感がみなぎり、一致団結してこの難局を乗り切ろうという気概が満ちあふれていましたね。

 『これ、いけるの?』『これ売れるの?』……そんな言葉が常に飛び交っていました。見逃した売り場はないか、みんなで必死に探しました。とにかくお金がないので、知恵で勝負するしかなかったのです」

 まず、低価格競争参入などで崩れてしまった“勝喜梅ブランド”をどう立て直すか。この「ブランド再構築」に関しては、創業の原点を確認し、その上で今、何をなすべきかが検討された。

 紀州南高梅ならではの粒の大きい特性を生かし、そして多くの人々にその魅力を知ってもらいたいという、故郷の名産品に対する深い愛情――それが原点だったはずだ。

 そこで、鈴木さんのアイデアにより、これまで贈答用の木箱に詰めて販売していたのをやめ、梅を1個1個、個別に包装するように改めた。言うまでもなく、そうした個包装によってこそ、南高梅ならではの粒の大きい特性が際立つからだ。

 それと同時に、億単位の設備投資をしてまで実施していた機械による詰め作業をやめ、1個1個、手作業で詰めるようになった(+窒素充填)。機械だと、皮が薄くデリケートな南高梅に傷を付けやすいからだ。「最高においしい梅干を、最高のコンディションで、お客さまのもとへ届けたい」という思いの表れである。包装も和紙にこだわり、見た目の高級感を醸成した。

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