紀州南高梅のニューカマーがV字業績回復できた理由――勝喜梅・鈴木崇文さん(前編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(2/4 ページ)

» 2010年07月17日 00時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

梅干が敬遠された時代、創業者の秘めた思いとは?

 自動車部品の製造企業が梅干の製造・販売に乗り出すというのは、非常に異色だが、そこには、創業者のどんな思いが込められていたのだろうか?

 「南高梅は、粒の大きさが特徴なのですが、その良さが生きていない。そして、こんなに良いものなのに、なんでもっと世の中に広がらないんだろう……1980年代当時、そういう強い思いに駆られての創業だったのです」

 日本が豊かになるにつれて、日本人の食生活は多様化し、確かに梅干が食事に占める位置付けも、次第に低下していった。昭和世代の人間から見れば、酸味と塩味のきつい梅干は、「日の丸弁当」という言葉に代表されるように、貧しい食事を象徴する存在であった。バブル経済が絶頂期に向かっていた当時であれば、なおのこと梅干のプレゼンスは低下していたと思われる。

 そして、もう1つのファクターとして、日本人の味覚の変化がある。世界各地のスパイスを積極的に受け入れるようになった一方、塩気に対しては敏感に反応するようになり、塩味のきつい食べ物は、次第に敬遠されるようになっていた。世の中に芽生えてきた健康志向が、その傾向を助長した。

 「さらに言えば、そうした風潮と連動するのでしょうが、『梅干は粒の小さいものの方が価値が高い』とされていたんですよ。塩辛くて食べにくい、それなのに、粒はやたら大きい、ということで、世間の評価はかんばしくなかったのです。そうした残念な状況を変えたかったのです」

ギフト事業での成功と迷走と

 バブル経済華やかなりしころ、勝喜梅は紀州南高梅のギフト専門会社としてスタートする。世の中のニーズの変化が進む中、どのような商品作りをしたのだろうか?

 「世の中の好みの変化をにらみつつ、弊社独自の“梅だれ(調味液)”を開発しました。また、梅は、南高梅の中でも『特A』クラス(下図表参照)のみを厳選し、水洗いした後、約1カ月漬け込むようにしました。一般の梅干は2週間くらいのものが多いですから、長期間の漬け込みが弊社の特徴と言えます。それをよく水切りして熱風乾燥庫で干して、選別・袋詰めするのです(勝喜梅製品製造工程参照)」

サイズ・等級表示

 販売チャネルはどのように構築したのだろうか?

 「関西の大手百貨店を主な得意先にして、中元・歳暮市場に参入しました」

 梅干の味には一家言持つ地元・和歌山の人々に支持され、勝喜梅の梅干は、大いに販路を拡大した。しかし、1991年にバブル経済が崩壊、変化が訪れる。

 「『それでも、中元や歳暮の習慣が日本からなくなるはずがない』という“読み”が社内にはあったんですよ。でも、現実には、じわじわと業績が落ちていきましたね」

 いわゆる平成大不況に沈んだ日本の産業界において、企業が中元を辞退するケースが増えたほか、地元・和歌山の企業でさえ、社長の代替わりを機に、中元や歳暮で梅干を送る習慣が失われていったという。それに加えて、客単価の低下もあって、業績は急激に落ち込んだ。

 「そのころ、創業者は本業(自動車部品製造など)の方で多忙だったので、勝喜梅の経営は外部からスカウトした経営者が担当していました。その下で、状況を好転させるためのさまざまな施策に取り組んだのです」

 百貨店やスーパーのPB商品開発、コンビニエンスストアの弁当やおにぎり用の梅干の製造など……。しかし、南高梅の「特A」クラスの商品を通じて、紀州南高梅の本当の良さを広く知ってもらおうとする創業の理念から外れた、低価格競争に足を一歩踏み入れたような戦略は当然のごとく不発に終わる。2001年には営業利益がマイナスとなり、翌2002年には、創業以来の最悪を記録する。

 こうした事態を踏まえ、勝喜梅では経営陣が刷新され、鈴木さんは役員に昇格した。そして創業の原点に立ち返り、「非連続・現状否定」型の経営革新を断行することとなった。

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