日本に貧困は存在するのか?――“貧困の定義”を考えるちきりんの“社会派”で行こう!(2/4 ページ)

» 2010年03月09日 08時00分 公開
[ちきりん,Business Media 誠]

貧困の定義のすれ違い

 でも、これは実は簡単なことではありません。以前、生活保護の母子加算廃止に反対する母子家庭の母親が「子どもの習字レッスンをあきらめなければいけない」と記者会見で発言し、ネットで批判を浴びました。その母親たちの一部が茶髪だったことも反発を呼んだようです。「俺たちの税金で髪を染めているのか?」と。

 この話は貧困の定義についての意識の違いを表しています。ある人たちは日本における貧困について「最低限の衣食住が手に入らないレベル」であると思っており、義務教育以外の習い事やヘアカラーのコストは最低限の生活には関係のないぜいたくな費用だと考えているわけです。

 これは昔からある議論で、生活保護の申請をする時には、持ち家はもちろん、どんなにおんぼろでも自家用車があってはいけないと言われました。また生活保護を受けている人が、酒やタバコを楽しむことにも一部に批判があります。「嗜好品に回すお金の余裕がちょっとでもあればそれは貧困とは言えない」ということなのでしょう。

 しかしながら今の日本において「生きていくのに最低限必要なカロリーだけが摂取できていれば、貧困とは呼ばない」と本当に定義すべきでしょうか? 議論のあるところだと思います。

 この問題が難しいのは、「貧困の定義がそのまま“税金で助ける必要がある人たち”と理解される」という点にあります。彼らを助けるための税金を払っている人たちも、かならずしも余裕のある生活をしているわけではなく、自分自身、嗜好品や子どもの習い事をあきらめたりしています。そういう人たちにとっては、自分の払った税金が他人の酒やタバコに使われるのは納得がいかない。心情的にはよく理解できます。

 数は少ないですが、本当の意味で(=摂取カロリーが足りなくて)餓死する人は日本にもいます(参照リンク)。こういう状態を「絶対的貧困」と呼ぶことには議論の余地はないでしょう。 

 しかし「生きていくのに最低限必要な摂取カロリーだけが入手できれば貧困ではない。テレビがなくても死なない。洗濯機がなくても手で洗えばいい。1週間くらい風呂に入らなくても病気にはならない」と言われて、「その通り!」と賛同できる人も多くはないと思います。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.