21歳になった杉山さんは、ガサ入れ直前に脱出し、逃亡生活に入ってしまった。
「名古屋の風俗嬢のところに逃げました。警察から逃げ、ヤクザからも逃げていましたから、いつチクられるかと、いつもびくびくして、もう誰も信じられない心理状態へと追い込まれていきました。夜も寝ないで打ち続けたりするわけですから、心身ともにおかしくなって当然です。
そして幻覚や幻聴が出ました。視野の端に入ってくる電柱が警官に見えてギョッとするんです。それでそっちを凝視すると電柱だと分かるんです。それと同様に、ミラーが視野に入ると、そこに映ったクルマのヘッドライトがパトカーの赤色灯に見えてしまう。でも凝視すると車のライトだと分かる。日常の生活全般が、そんなことの連続になるんです。
いつもおびえているものだから、被害妄想が高じて誰も信じられなくなり、かくまってくれている女性をぶん殴ったりしてしまったこともありました」と語り、杉山さんは思わず嘆息した。
禁断症状で震えが出たりしたのだろうか?
「それについては、世間的に、少し誤解があるように私は思います。覚せい剤を体に入れるとき、それが毒であることを体は承知しているので、体が『もう止めてくれ!』と反応し、それで震えが出るんですよ」
それにしても、その間の生活費はどのように工面していたのだろうか? 日々の生活費に加えて、覚せい剤の購入費用も多額に上ったと思われるが……。
「実は、19歳のころからパチプロとして収入を得ていましたし、クルマのディーラーをやっていた時期もあったので、それらによる貯蓄がそこそこあったんですよ。それに加えて、同居している風俗嬢の収入がありましたから、それでなんとかやっていました」
1997年、すでに23歳。そして逃亡生活は2年になろうとしていた。そのころには、潜伏先の名古屋から大垣の実家にも時折、顔を出すようになっていたという。そんなある日のこと。
「両親が私に大学に行ったらどうかって言ってきたんです」
でも、大検コースには通わなかったのでは?
「いや、実は私、大検に合格していたんです。19歳のとき、乱闘事件で逮捕された折に、担当刑事や弁護士が良い人だったこともあるのですが、とにかく心証を良くしようと思って、大検の勉強をしていました。
それを真に受けて、両親は私を大学に行かせようとしたんでしょう。でも、私は覚せい剤中毒なんだ。相も変わらず、親は私のことなんて、何も分かっちゃいない。そんな親だから、自分はこんな姿になってしまったんだ。そういう長年にわたる何とも言いようのない鬱積(うっせき)した思いが腹の奥底から湧き上がってきて、遂に爆発したんですよ。今思えば、両親に対するSOSのようなものだったのかもしれません」
そして杉山さんは、両親の目の前で自ら覚せい剤を注射して見せたのである。
「お前らのせいで、オレはこうなったんや〜!」
茫然自失する両親……あまりの衝撃に思わず泣き崩れる母親……そして父親も……。しかしそのときの父親は、悲しい顔でうつむきながら、
「ユウタ、お前はお父さんらの大事な息子だ! 一緒にがんばって、止められるように何でも協力する。お父さんたちが悪かった! お前がそんなに苦しんでいるとは知らなかった」と叫びながら、杉山さんを力いっぱい抱きしめ、泣いてくれた。
杉山さんは、ハッとした。世間体にしか興味がなく、自分への愛情などないと思っていた両親が、今、自分の悲惨な現実を目の当たりにして、自分のために泣いてくれている。その瞬間、杉山さんは、遠い幼年時代に両親から愛されていたことを思い出した。
「実は、その後も、そして今も、昔と何ら変わらず自分は深く愛されていたんだ。両親はこんな自分でも受け止めてくれるんだ」
彼はハッキリそう自覚したのである。そう思うと同時に、覚せい剤でマヒし冷え切っていた心に、忘れていた温かいものが流れた。杉山さんもせきを切ったように泣き崩れ、両親とともに、30分以上、泣き続けた。ようやく親子が分かり合えた瞬間だった。
本気のコトバと抱擁を通じ親の愛情を自覚し得たことで、この日、この瞬間から、彼の人生は大きく変わっていく。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング