杉山さんは言う。「自分は両親にとってかけがえのない存在なんだということが分かって、自己肯定感が出てきました。自分の人生をもっと大切に生きないといけないって。でも、そうはいっても、自分はどうせワルなんだというという矛盾した意識がありました」
覚せい剤は、もう使うのを止めたのだろうか?
「自己肯定感が次第に増してくるに伴い、覚せい剤の使用量も、少しずつ、減っていきましたね。あの時、親の愛情をコトバにして言ってもらったことによって、心の寂しさが埋められ、薬物の入り込む隙間はなくなっていったんだと思います。次第に気持ちよく感じなくなっていきました」
こうして、覚せい剤から徐々に足を洗うことができた杉山さんだったが、更生への道は並大抵の苦しみではなかったようだ。
「昔の仲間たちとの付き合いも一切断って、地元を一時的に離れました。そして住み込みでパチンコ屋の店員をやったり、営業の仕事をしたりしていました。しかし、長年にわたる薬物摂取の影響もあって、自信も喪失していましたし、笑うことが出来ないくらい、精神的にも肉体的にもかなり不安定な状態が続いていました」
そんな杉山さんではあったが、ほんの少しずつかもしれないが、自分の将来に関しても、前向きの気持ちを持つようになっていったようだ。
「大学に進学して教師になりたいって思ったんですよ。『GTO』※に憧れましてね(笑)。そして2000年4月、岐阜県にある朝日大学の法学部に入学したんです」
しかし、大学もまた荒廃していた。そこで杉山さんは、大学関係者と協力して、GTOばりに(?)、大学の学級崩壊を是正していったという。
「とはいっても、とにかく劣等感は強烈でしたね。周囲の学生が7歳年下だということだけではない落差を感じていたんです。何をするにも自信が持てないんです。だから、大学にどんなファッションで行けばよいかも、全然分からないわけですよ。
それに、歌をまた歌いたいと思ってボイストレーニングを受けましたが、覚せい剤中毒の影響もあってか、思うように声が出ませんでした。ただ、そういう思いをしたことによって、他人の痛みは分かるようになりましたね」
昔の仲間たちや、暴力団関係者が、再度、接近してくることはなかったのだろうか?
「いや、それはなかったですね。覚せい剤中毒の杉山が大学に入ったって聞いて、彼らは『薬のせいで、とうとう脳がやられた』って思ったようですから(笑)」
苦しみながらも、彼は着実に更正への道を歩み続けた。そこには、あの夜以来、どんな時も応援してくれる両親の深い愛情による支えがあったという。大学2年で宅建に合格し、その後、教員免許も取得。卒業時の学業成績は首席だった。
大学生の多くが経験する就職活動は、杉山さんの場合、どうだったのだろうか?
「社員50人くらいの不動産会社に内定をいただきました。でも『岐阜で終わりたくない、やっぱり東京に出て子どものころからの夢だった歌の世界で勝負したい』という思いが募ってきたんですよ。それで入社式を間近に控えたころ、入社辞退を申し出たんです。
すると『35歳になっても芽が出なかったら改めて雇ってやる』って言ってくれたんです。嬉しかったですね」
「オレは親の一言で救われた。今度はオレが歌で人を救う」という不退転の決意だった。
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