ガンダムは作品ではなく“コンセプト”――富野由悠季氏、アニメを語る(後編)(2/4 ページ)

» 2009年07月08日 13時22分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

――ガンダムから始まり、『新世紀エヴァンゲリオン』や『マクロス』でもそうだと思うのですが、主人公が10代の男の子で、戦争に巻き込まれて、ある日突然ロボットか何かのなかに入って、ちょっと考えるだけで操作できるようになる。こういうヒーロー像が出てくる文化的背景はどこにあるのでしょうか?

『マクロス』公式Webサイト

富野 おもちゃ屋さんがスポンサーだからです(笑)。

 でも、この言い方は半分は絶対的に正しいです。この絶対条件をのむためにどうするかと考えたわけです。「全長が18〜20メートルの人型兵器が運用できる物語世界がどこにあるんだろうか」と考えた時に、重力下では絶対に動かないと想定されたので、宇宙戦争にすると決めました。

 また、毎週新しい兵器、つまりモビルスーツが出てこなければいけない。毎週新型のモビルスーツが出てくるだけの経済力があるのは国家レベルでしかないということで宇宙戦争にしました。「地球と月までのスペースの中で国家を成立させることができるか」と考えた時、スペースコロニー※というアイデアがあったおかげで国家を形成することができました。

※スペースコロニー……宇宙空間に作られた人工の居住地のこと。

 そして、「戦車や航空機レベルのものを、子どもがなぜ見た瞬間に操縦できるか」ということについては、“超能力者”であるという設定をしました。ただ、30年前でも超能力者という概念はSFの世界ではすでに使い古されていた概念でした。そこで、ファーストガンダム(『機動戦士ガンダム』)の主人公アムロに関しては“ニュータイプ”ではないかという設定にしました。

 このニュータイプという定義付けがとても難しくて当時はできませんでしたが、最近ようやくできるようになりました。

 我々は今環境問題、エネルギーが少ない地球というものに直面しています。現在までの人類の能力論や経済論だけでは、1000年という時間を我々は地球で暮らせないわけです。

 そういう問題が具体的に分かってきた時に、日本人でも「人類が生きのびるためには、ニュータイプにならなければならないのではないか」という考え方を持つ人が出るようになってきました。30年前の「アムロはニュータイプかもしれない」といった概念が、ようやくここで定位しつつあります。「我々は現在以上の能力を持てる可能性にチャレンジしなければいけない」「チャレンジする意味もあるのではないか」、つまり(ニュータイプは)全部がフィクションではないというところに到着することができました。

 (同じニュータイプでも)アムロはガンダムしか操縦できませんでしたが、我々はエネルギーがなくなった地球でも1万年生きのびることができるかもしれない。人にはそういう可能性はあるのではないかというシンボルに(ニュータイプは)なりうるのではないか、ということが僕の中にあるこの1年間のニュータイプ論です。

 今までこのように言葉にすることができなかったのですが、視聴者が「何かそういうものがあるのではないか」という期待を込められるものであったために、ガンダムは30年間生き続けてたと思っています。そのため、先ほど名前を挙げられたようなほかのタイトルとは実を言うと基準が違うんです。(エヴァンゲリオンやマクロスと)比べるな!!

 自分の想像力がなかったということで、本当に反省してもいるのですが、今回お台場にできたガンダムを見て、とてもビックリしています。力を感じました。その力は何かと言うと、おもちゃカラーの持っているピースフルなカラーリングは、21世紀の我々にとって絶望するなという色で、兵器の姿ではないんだということを思い知らされたのです。僕はこれは想像しませんでした。「プラスチックモデルの1分の1(原寸大モデル)ができたらみっともないだろう」という嫌悪感しかなかったのです。

お台場で作られた原寸大ガンダム

 あのおもちゃカラーは、子どもたちが好きなカラーです。あの色の組み合わせが持っているものは、恐らく大人が考えているようなしゃらくさい政治論とか経済論を乗り越えているのです。だから、あの上に立った新しいコンセプトというものを我々が手に入れることができれば、絶対に人類は1万年生きのびられると思っているのです。しかし大人の知見で、今の日本の国家のバカどもが言っているようなレベルで物事をやっていけば、「お前ら、日本国家100年持たねえぞ」「そろそろそういうことを分かれ」ということです。

 別の言い方をすると、「国立メディア芸術総合センター」みたいなことを言っている政治家たちはあのおもちゃカラーをダシにして117億円を使って平気なんです。来年の維持費のことは考えていないのです。

 ただ、「おもちゃカラーはそういうものを乗り越える何かを持っている」という意味では、僕は新しい“自由の女神像”になるのではないかと思っています。その自由の女神像という言葉は実を言うと僕の言葉でありません。ある人が3カ月前、僕をなぐさめてくれました。「絶対に自由の女神像になるよ。だからそんなに自己卑下するな」と。そういう言葉をかけてくれる日本人が身近にいるということも、自分にとっては今になってみるととても誇らしいことだと思っています。だから言うんです、「ほかのアニメと比べるな」と。ただのアニメじゃないんです。ただのロボットものじゃないんです。ガンダムってかなりすごいんですよ。

――以前、宮崎駿監督がここに来た時に言ったことなのですが、どの作品にも寿命というものがあり、映画については30年が限界ではないかと言いました。ガンダムはすでに30歳です。今の若い世代にもガンダムは何か訴えることがあるのでしょうか?

宮崎駿監督(2008年11月20日撮影)

富野 先ほどニュータイプの話をしましたが、「これから50年生きのびる」ということではありません。我々のリアルな命題を(ガンダムでは)定義しているわけだから、残るしかないじゃないですか。そういう意味では、とても不幸なことだと思います。

 今の質問でとても重要な問題が1つあります。宮崎監督は作家として作品論を言っていますが、ガンダムは作品として完結していないのです、ガンダムはコンセプトしか定義していなくて、実を言うと作品になりきっていないのです。そういう意味で僕は「宮崎監督に負けた」という敗北感を持っているのですが、根本的に宮崎さんのお話している作品論とガンダムは寄り添っていません。

――ガンダム以前に監督をされた『無敵超人ザンボット3』でも人対人の関係ができていたと思うのですが、それにガンダムは影響を受けていますか?

富野 その部分に関しては多少作家的な意識が働いていて、影響されないようにガンダムワールドを構築しました。ザンボットの要素がガンダムに入ってくることは排除しました。そうしましたので、影響はしていません。ただ、1人の人間が作るものは幅が狭いですから、そういう影響が皆無かと言われればそれは皆無だとは思いません。

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