“高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編)(3/5 ページ)

» 2009年03月12日 19時00分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

1日で3回サインが変わった

高橋 そうしてどんどん展開していったのですが、その時コロコロさんに「『春休みコロコロまんがまつり』でハドソンさん何かやりませんか」と依頼されたことがありました。コロコロまんがまつりは「次世代ワールドホビーフェア」の前身で、マンガ家さんを呼んでサイン会をしたりするというイベントでした。

 1984年12月に『ファミリーベーシックがわかる本』という、今でいう攻略本のようなものを出しました。12万部ほど売れたので成功は成功なのですが、これを(出版取次の)トーハンさんや日販さんに説明しにいくと、まずファミコンという言葉自体が分かっていないのです、まだ1984年ですからね。子どもの世界では『ロードランナー』とかが100万本くらい売れてて騒がれている時だったのですが、出版業界ではまだ「ファミコンがどれだけ人気があるのか」が分かっていなかったんですね。それでコロコロさんは「実際に目の前で子どもが遊んでいる時の顔や雰囲気を見てみたい」と思っていたようです。

 ハドソンも1985年4月に『チャンピオンシップロードランナー』というソフトを出そうとしていたのですが、非常に難しいゲームだったので『ロードランナー』のように子どもがいい顔をしてくれるのかどうかが分からない。そのため、そういう機会があれば試してみたかったというのがありまして、ちょうど両社の目的が合致したという感じでしょうか。

当時の高橋氏(出典:CESA『テレビゲームのちょっといい話・4』)

 コロコロまんがまつりを東京・銀座の松坂屋でやると、1000人くらいの子どもが来ました。デモ操作をやったのは私なのですが、この時はまだ名人ではありませんでした。看板に「ハドソンの高橋利幸さん来たる。『チャンピオンシップロードランナー』をどうのこうの」と書いてあるんですよ。1000人くらいがそこで遊んだのですが、非常に熱中した顔になっているんですね。そして、1時間くらいのステージが終わっても200〜300人が帰らないんです。「どうしたの?」と聞いたら、「サインくれ」と言われました。サインなんて考えたことがないので、最初は漢字で“高橋利幸”と書いていましたが、疲れてきたのでローマ字で“Toshiyuki Takahashi”になって、それから50人くらいやっていると、またまた疲れてきたので“T.Takahashi”になってと1日に3回サインが変わりました。それをやった後、打ち上げの時に「これを全国でやったら面白いね」という話が持ち上がって、1985年の全国キャラバンの話へとつながるわけです。

 当時はファミコンが300万台くらい売れていた時でしょうか。子どもの世界では流行の兆しがあったのですが、まだビッグウェーブにはなっていなかった時ですね。ビッグウェーブにするための最初のアクションを付けたのが、コロコロさんの『ファミコンロッキー』やコロコロまんがまつりのイベントだったのではないかと私は思っています。

2カ月で59イベント、そして毛利名人誕生

高橋 そして7月21日から8月30日に“全国キャラバン”という、おそらく一番有名なゲーム大会を行うことになります(この年に使われたゲームは『スターフォース』)。当時は店頭規模でゲーム大会をやっているイベントはありましたが、全国規模というのは初めてで、大変なことでした。ちなみに、コロコロまんがまつりで「全国でやってみようか」という話が出たのは4月1日だったんですね。分かりますか? キャラバンが始まったのが7月21日です。キャラバンのスケジュールはコロコロの中で発表しないといけません。コロコロは、毎月15日ころ発売です。キャラバンにはご両親が一緒に来る人もいるので、7月15日にスケジュールを発表しても遅い。そのため、「絶対、6月15日にはスケジュールを発表しよう」となります。そうすると、コロコロ掲載の締め切りが5月30日なんです。4月1日から始めて、5月30日までの2カ月で全国59カ所のスケジューリングをしなければなりませんでした。

ハドソンが参加・展開したイベントリスト(1985年)。高橋氏が正式に“高橋名人”と名乗ったのは、5月3日の「コロコロまんがまつり・スターフォース発売前ファミコン大会」

 ない知恵を絞って考えたのが「全国展開をしている大きいチェーン店さんと組もう」ということです。そうすると「そこのバイヤーさんやMDさんに説明するだけで、全国の基本的なスケジュールは押さえられるだろう」となったんですね。そこで、当時一番大きかったダイエーさんにお願いしたんです。ダイエーさんで23カ所くらいを押さえて基本的な動きを決めるまで1カ月ほどかかりました。4月下旬くらいからは、ほかに空いている日の分を、営業に売り上げのために埋めてもらうことにしました。すると営業がガンガンイベントを入れてきて、最終的に全国59カ所で開催することになりました。

 私が南キャラバン担当で、7月21日にダイエー鹿児島店から回りまして、北キャラバンの方は(当時)大学生の毛利名人に担当してもらいました。(毛利名人が加わるきっかけは)5月に東京・平和島の東京流通センターでやっていた「マイコンショウ」でのことです。ハドソンが出展していると、毛利君が「僕、こういうのやっています」と同人誌を持って来て、「おおそうか、君はゲーム上手いのか。じゃあ、ちょっと来週くらいハドソンに遊びにおいでよ」と言って、ハドソンに来た時に『スターフォース』をやらせると結構点数をとるので、「君さ、夏休みヒマ? バイトしない?」ということで急きょ“毛利名人”にしたいきさつがあります。こうして全国キャラバンは、無事に終えることが出来ました。

 それから12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」がですね、さっき言った波にアクションが入って、ちょっと大きくなったところにまたさらにビッグウェーブにしてくれたイベントだったと私は思っています。細かいことは後で話をさせていただきます。

 下表は1986年のイベントリストなのですが、1985年のイベントリストより字が小さくなっています。これは1ページだけではなく、実はもう1ページあるんです。ただ私が参加したイベントはとてもこんなものでは足りなくて、毎週土曜日、日曜日は営業に連れられて、1日に4〜5店のおもちゃ屋さんを回るという店頭イベントをやっていました。1年は52週あるので、年間で500回くらいのイベントをさらに私はやっていることになります。翌1987年のイベントリストを出そうとすると4ページになってしまうのでやめました。

ハドソンが参加・展開したイベントリスト(1986年)。イベントの数が多過ぎて画面からはみでている

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