“高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編)(5/5 ページ)

» 2009年03月12日 19時00分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]
前のページへ 1|2|3|4|5       

3つのキーイベント

高橋 1985年に行われたイベントで、キーとなったものは3つあると思います。1つは(前述の)コロコロまんがまつり、全国キャラバンを始めるきっかけとなったイベントです。この時の子どもの反応が悪ければ、全国キャラバンはなかったと思います。店頭でのゲーム大会くらいはやったかもしれませんが。

 2つめのイベントは全国キャラバンファミコン大会です。キャラバンではスポンサーを付けました。ハドソンはお金があまりない時期でしたので、TDKさんに3年分のスポンサーをしていただいて、キャラバンカーを作って全国を回りました。TDKさんが5月中旬に決まるまで、キャラバンカーの発注もしていませんでした。「スポンサーが付かなかったら1台で回る」という時だったのですが、お陰さまで2台作ることができて59カ所を回れました。

 キャラバンは午前中は250人の予選・決勝、午後も250人の予選・決勝を全会場で行うというイベントです。前日の夜に会場近くに行って、6時に起きて、7時に会場に行ってセッティングを開始して、10時に子どもたちを迎える準備を終えるので、準備時間は3時間ですね。そして、説明会、予選、決勝で12時半くらいに午前の大会が終了します。1時間くらいのお昼時間があって、13時半からもう1回250人の予選・決勝をして、16時くらいに終了です。

 それから搬出を開始して、18時くらいにクルマを出します。クルマはドライバーと副ドライバーが順番に交代して運転します。そのほかメインで回ったのが、ディレクターと私とMCの3人です。ですから、基本は5人で回りました。

 ディレクターは午前の大会が終わったら、次の日の会場に先に行きます。前の日に会場の担当者と打ち合わせをして、どこから搬入するとか、場所はどれくらいだとかいう打ち合わせをします。私とMCは搬出が終わったら、電車で次の場所まで移動します。20〜21時くらいに着くと、反省会をして、晩飯を食べて、寝て、次の日は6時に起きてということで大変でした。

 この時にMCの女の子が劇団の出身だったんですね。オーディションの時はアドリブが非常に上手だったのですが、実際にイベントに立たせると、結構渋かったのです(=アドリブが利かない)。そこで、2日目くらいの夜にディレクターさんが私のホテルの部屋に来て、「名人どうする? 帰そうか?」と言ってきました。「いや、今からまた次のオーディションするのは無理だから、彼女には僕を紹介してもらって、その後は僕が何とかします」ということになりました。この(1人で仕切った)経験が私を力強い、こういうスタイルにしてくれたということです。

 3つめのイベントは12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」です。晴海国際貿易センターで開催して、4000人くらいの子どもが来ました。テレビ東京さんのおはようスタジオ、コロコロさん、ハドソンの3社で目いっぱいやったんですね。この模様は翌23日の東京新聞に載りまして、「スーパーヒーロー出現」とか「子どもたちのあこがれ」とか何かいっぱい書かれているんですよ。すると、24日に『フライデー』と『週刊文春』から取材依頼が来たんですね。25日に取材をして、『フライデー』が翌年1月10日くらい発売、『週刊文春』も同じくらいに発売されました。1985年の段階で、ファミコンブームはまだ子どもの世界の話だったのです。おはようスタジオというテレビ番組にも出てはいましたが、大ブームではなかったんですね。そこに、この雑誌が出た事で、一気に大人の世界へと広がったのだと思います。

1985年12月22日の東京新聞

 ファミコンブームに拍車をかけたのが1985年9月に発売された『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)です。コロコロさんに聞いたことなのですが、当時任天堂さんは宣伝があまり得意ではなくて、普通は発売する前に「このゲームの記事を展開してください」と編集部にロムを持っていくものなのですが、『スーパーマリオブラザーズ』は発売した後にロムを持ってきたのだそうです。事前の宣伝を十分にしていないので、『スーパーマリオブラザーズ』は「子どもの口コミだけで伸びていったソフトだ」と感じます。確かにあのゲームはすごいと思います。当時のゲームは、自分(のキャラ)が光ることでインパクトを与えていたんですね。それが、(キャラが)でっかくなるんですよ。でっかくなったら誰が見たって「強くなった」って思うじゃないですか。あれは本当に「やられた」と思いました。

 (任天堂の宣伝は特徴的で)当時の山内溥社長は「店頭の宣伝はいらない」と断言していたんです。「金があるなら、テレビに入れろ」ということで、任天堂さんはテレビCMが多いんです。今の岩田聡社長さんになられてからは、店頭も大事だということで、DSにしてもWiiにしても店頭で触ったり体験したりできるようになりましたが、昔は絶対無かったですから。「そんな金かけるんだったら、CM1本入れろ」というような会社でした。

ファミコンが店頭から消えた

高橋 こうして1986年になるころには、ファミコンブームの兆しが来ていました。そんな時、年配の方は覚えていらっしゃると思うのですが、1986年1月から3月までファミコンが日本中から消えたんです。店頭から品切れになったんですね。任天堂さんが出荷を止めたんです。1985年12月までに300万台ほど売れていたのですが、おもちゃ屋さんで安売りが始まりかけていたらしいんですね。そこで(任天堂の)社長さんがちょっと怒ったようで、「安く売るなら(出荷を)やめよう」となって、3カ月くらい出荷を止めたみたいです。

 ファミコンを持っている子どもたちの中ではスーパーマリオが盛り上がっているんですよ。「すっげえ面白え、面白え」と。みんなやりたがっているわけですが、ファミコンが買えないんです。ソフトはあっても、本体がないんです。シャープさんが「ファミコンテレビC1」というファミコン内蔵テレビを14インチ9万3000円、19インチ14万5000円で販売していたのですが、それまで品切れになりましたからね。

 どんな商品でもそうなのですが、みんなが欲しい時に買えないということになるとブームに拍車がかかるんです。「たまごっち」の時もそうですよね。買いたいけど並んでも買えない、だから余計欲しくなる。こうして1986年にファミコンブームの大絶頂が訪れました。これ以上のブームのピークはなかったのではないでしょうか。1986年にハドソンは『スターソルジャー』というシューティングゲームでキャラバンをやりました。1986年の時にはイベントの数が倍増、キャラバンの参加者も7万人くらいになりました。

 7月20日前後の札幌大会での話です。私はその時搬入しなくてもいい立場になり、準備ができてからリハーサル前に行くくらいだったのですが、9時くらいに札幌地下街を通っていたら、子どもたちが泣いて歩いているんですよ。「何かなあ?」と思って見たら、キャラバンに参加するために子どもが2000人ぐらい並んでいました。参加者制限が確か700人だったので、半分以上は参加できなかったんです。中には釧路か根室からクルマを運転してきたお母さんもいまして、泣きながら「せっかく札幌まで子どもと来たのに……」というので、チケットを2つ(最後の試合の)数合わせであげました。結局、お子さんは10万点台の点数しかとれず全然ダメだったのですが、まあそういう時代でした。

 人気が出たことに関しては、「あの時はちょっと失敗したな、顔出さなきゃ良かったなあ」と私も思うくらいでして、会社からやってはいけないことをいっぱい言い渡されました。一番大事なのは、「ピンク街を歩くな」。歩くだけでもダメです。歌舞伎町奥の新宿コマ劇場に行く時には、「道のど真ん中を真っ直ぐ歩いて映画館に行って、終わったら真っ直ぐ帰って来い」と言われました。「端っこ歩くな」と言われたのです。「ピンク街の看板と一緒に写真撮られたら、週刊誌に何を書かれるか分からない。(もし書かれることになったら)子どもにどう(言い訳)すんだよ」と言われたのです。そして「バイク禁止」。私はバイクが趣味なのですが、「お前怪我したら誰やるんだ」ということです。今は乗っていますが、そういうのがいっぱいありました。

 →後編に続く

前のページへ 1|2|3|4|5       

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.