ヴァージン航空の日本撤退で浮上した「成田縛り」とは何か?ANAはどう動く?(1/2 ページ)

» 2015年02月12日 12時03分 公開
[秋本俊二,Business Media 誠]

 2015年2月1日の午後0時25分、英ヴァージン・アトランティック航空のVS901便が成田空港を飛び立った。1989年の就航から25年にわたって東京とロンドンを結んできた同社の、日本からの最終便である。「大好きな航空会社だったのに」と、ヴァージン撤退を惜しむ声は少なくない。最後の離陸を見守るファンの中には、涙ぐむ人の姿もあったほどだ。

ヴァージン・アトランティック航空は日本にもファンが多かった

 航空会社の路線撤退は、決して珍しいことではない。市場戦略の見直し、需要減による収益悪化など、各社それぞれに事情がある。ヴァージンは日本からの撤退について「デルタ航空との共同路線拡大」などを理由に挙げた。それも戦略なので、周囲がとやかく言えることではないのだろう。しかし今回のヴァージンの決断は、一方で別の問題を浮上させた。背景にあると噂される「成田縛り」の問題である。

成田縛りとは何か?

 成田縛りとは、羽田空港の国際化進展にともない業界関係者の間でささやかれるようになった言葉だ。成田に発着枠を持つ航空会社に対して、国土交通省が「羽田に国際線を新しく就航させる場合は、成田の発着便も残すように」と行政指導を行う――これが成田縛り。法的根拠はなく、あくまで水面下での指導なのだが、航空会社にとっては実質的に“政府命令”と解釈されてきた。

 なぜこうした指導が行われてきたのか? 理由は、成田の開港当時にまでさかのぼる。成田空港は、羽田が手狭になり、地元で生活していた住民を強制的に立ち退かせて建設した空港だ。開港はいまから37年前の1978年5月。開港後も反対派の運動は絶えず、トラブルを繰り返してきた。しかし、日本人の海外旅行が一般化し、成田から海外へ出る利用者が増えるにしたがって、反対派の声も少しずつ弱まっていく。開港当時、成田に乗り入れていた航空会社は日系も含めて34社だったが、現在は3倍に増え、世界約40の国・地域の約100都市とつながる日本の空の玄関口として発展を遂げた。

約100都市とつながり日本の空の玄関口として発展を遂げた成田国際空港

 ターミナルや空港周辺の施設も、この37年の間にずいぶん変わった。ターミナル内には第1と第2を合わせて250を超す店舗がひしめき、年間3000万人以上が訪れる。周辺は飛行機の撮影スポットなどレジャーゾーンとしての整備も進み、地元の有志と成田市、成田空港が手を組んで発足した“地域おこし”のグループ「成田空援隊」も2010年から活動を開始。目の前の迫力ある離陸シーンにカメラを向けるヒコーキ大好き女子――いわゆる“空美ちゃん”ブームも巻き起こった。

羽田の国際化が成田に与えた影響

 しかしこうして発展できたのは、「国内線は羽田、国際線は成田」というすみ分けができていたからこそである。羽田が4本目のD滑走路の供用開始とともに2010年10月に再び国際化され(参考記事)、現在は早朝・深夜の発着枠にとどまらず2020年の東京五輪を目指して昼間の枠もどんどん航空会社に与えられはじめている。そうなると、ビジネス需要を取りこめて収益性の高い羽田に航空会社が路線をシフトしていくのは当然の流れ。そんな状況を、過去の歴史に目をつむって国の政策に泣く泣く賛成してきた成田周辺の住民は我慢できるわけがない。そこで始まったのが、行政指導による成田縛りだった。

 今回のヴァージンの撤退で、この成田縛りという暗黙のルールがにわかに揺らぎはじめた。ヴァージンはもともと、羽田線は持っていない。2013年秋に羽田からの英国向けの昼間発着枠が日英双方の話し合いで両国に2枠ずつが配分され、日本側がANAとJALで1枠ずつ、英国側にもBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)とヴァージンに1枠ずつ割り当てられた。しかしヴァージンは羽田就航を見送り、成田/ロンドン線の1便だけを継続。成田線を残して新規に羽田線を開設する余裕まではなかったのだろう。かといって、羽田線のみの運航は許されていない。ヴァージンは、文字どおり成田に“縛られていた”わけだ。

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