すべての仕事は道に通ずるMBA僧侶が説く仏教と経営(1/2 ページ)

» 2013年06月04日 08時00分 公開
[松本紹圭,GLOBIS.JP]

松本紹圭(まつもと・しょうけい)

1979年北海道生まれ。浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。蓮花寺佛教研究所研究員。米日財団リーダーシッププログラムDelegate。東京大学文学部哲学科卒業。超宗派仏教徒のWebサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、お寺カフェ「神谷町オープンテラス」を運営。2010年、南インドのIndian School of BusinessでMBA取得。現在は東京光明寺に活動の拠点を置く。2012年、若手住職向けにお寺の経営を指南する「未来の住職塾」を開講。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社)、『「こころの静寂」を手に入れる37の方法』(すばる舎)、『東大卒僧侶の「お坊さん革命」』(講談社プラスアルファ新書)、『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』(ディスカヴァー21社)、『脱「臆病」入門』(すばる舎)など。


 日本人の仕事はすべて、道に通じます。仏道はもちろん、医道、金融道、アーティスト道……。いつの時代も日本人が何かを極めようとすれば、それが道となりました。

 江戸時代の禅僧、鈴木正三は、自らの生業において勤勉に働くことがそのまま仏道修行となることを強調しました。キリスト教におけるプロテスタントの考え方にも重なりますが、世俗のなかにこそ真の仏道があると考えた正三は、農民は農民として、職人は職人として、商人は商人として、日常的な仕事に打ち込むことが、すなわち人格の完成につながる修行であると説きました。このような職業観は、多くの日本人が心の奥底で共有しているもののように感じます。

 道とは何か。道元禅師はこう言います。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。

 ここで語られる仏道も、広く日本人の職業観にも通じるところがあるのではないでしょうか。いかなる仕事であれ、仕事をひとつの道としてひたむきに追求することで、日本人は自己を見つめていきます。自己を徹底的に見つめた果てに出会うのは、確固たる自己どころか、固定した実体などかけら程も持たない自己の無根拠さ。しかし同時に感じられるのは、そのような根っこのない自己があるがまま成り立っている不可思議さ。そのとき人は、仕事を通じて自己を再発見するのでしょう。

自然観、無常観が日本人の仕事を道としてきた

 では、日本人の仕事が「道」となるのは、なぜでしょうか。

 ひとつには、自然観があります。世界でも類のない変化に富んだ四季の移ろい、万物のいのちの源である水の豊かさは、日本人の自然に対する憧憬を育んできました。

 そもそも、昔の日本において自然は「じねん」と読みます。親鸞聖人は「おのずからしからしむ」と読んで、世界を今あるようにあらしめる阿弥陀如来の働きを見いだしました。現代語の「自然=nature」のように、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指す言葉はもともと日本語には存在しなかったと言います。人間と自然界の間に隔たりを見ることなく、ただ自然(じねん)にあるものがあるようにしてあるだけ。そういう精神風土が日本にはあります。

 親鸞聖人は最晩年、「自然法爾(じねんほうに)」、つまり「あるがまま」「そのまま」を強調しています。自己中心的な考えや行動など、すべてのはからいが脱落し、自力による分別を離れたとき、自然の道理、すなわち仏のはたらきによって、あるがままに生かされることを知るのです。そのように日本人にとって、自然とは自己と切り離されて客体的に存在するものではなく、自他を峻別(しゅんべつ)する人間のさかしらを捨てたときに立ち表れる、ナマのままの世界でありました。

 そのような風土に生きる日本人の仕事は、そのまま自己を見つめる道となります。それも、自己を他と切り分けて確立しようとする自己中心の道ではなく、自己も他者もすべてが自然(じねん)に溶け合う自利利他円満の道です。「三方良し」にも通じる職業観が生まれます。

社会人の学び
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