福島県南相馬市原町区の原町第一小学校の体育館に震災後初めて訪れたのは3月26日。子どもやお年寄りを中心に市民は南相馬から避難していた。このとき、同市小高区は警戒区域で立ち入りが制限されていた(現在は立ち入り禁止)ため、「どんな状態になっているのか」と、区長の1人、楽伸一郎さんは心配していた。そのため、私が再び警戒区域に入り、楽さんが住んでいた地区の動画を撮影。楽さんに見せるために、再び体育館に戻って来たことがあった。
あれから4カ月が経とうとしていた7月25日。再び、原町一小の体育館を訪ねた。震災当初は300人ほどがいて、私が最初に訪れた時は92人いた。4月には130人ほどになっていたが、この日は避難者が88人と少なくなっていた。避難所となっていた体育館は、当初よりは落ち着きを取り戻していた。
3月には「誰かが残って(小高区の状況を)伝えなければならない」と言っていた楽さん。現状はどう把握できたのだろうか。
「被災状況や放射線量は地域によって全く違う。海側の東部地域は線量が低い。しかし、国道6号線から東は津波で家が全壊の状況。中部地域は線量も低く、家はなんともない。山側の西部地域は線量が高い」
また、現在の家の状況がどうなっているかは、一時帰宅をしていない人には分からない。楽さんは2回、一時帰宅した。そのときに自身で写真を撮ってきたものと、自衛隊が撮影してきた住宅の一軒一軒の写真を市に依頼して取り寄せ、アルバムのようにリスト化していた。そして出会えた住民たちに、その写真を手渡しているという。
「隣近所の人たちの固定電話の番号は分かるが、携帯電話の番号は分からない。避難先はバラバラ。区長さんたちの携帯番号を把握するのに3カ月かかった。1人ひとりの状況を確認するのは並大抵じゃない」
これまで他の住民たちのことを考えながら動いてきた楽さん。自分のことができるようになったのは7月中旬ぐらいからだ。
「先行きは不透明ですね。(小高区に)いつ帰れるか分かんない。これからの自分のことばかり考えている。自分の生活が第一。ぜいたくなど考えていない」
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