ソーシャルビジネスからエヴァの缶詰まで、広がる“おいしい”保存食の活躍(後編)嶋田淑之の「リーダーは眠らない」(1/5 ページ)

» 2011年07月22日 08時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

嶋田淑之の「リーダーは眠らない」とは?

 技術革新のスピードが上がり、経済のグローバル化も進む中、日夜、自らの組織のために粉骨砕身するリーダーたち。彼らはどんな思いを抱き、どんなことに注目して、事業を運営しているのでしょうか。「リーダーは眠らない」では、さまざまな企業や団体のトップに登場していただき、業界の“今”を語ってもらいます。

 インタビュアーは戦略経営に詳しい嶋田淑之氏。徹底した聞き取りを通して、リーダーの心の内に鋭く迫ります。


 栃木県北部の田園地帯に本社を置く小さなベーカリーでありながら、世界を舞台にしたソーシャルビジネスを展開するパン・アキモト。

 前編では同社の顔とも言うべき「パンの缶詰」の商品力と、これを最大限に活用するビジネス・モデル「救缶鳥プロジェクト」の概要についてご紹介した。そして東日本大震災で自ら被災しつつも、東北地方の被災地に対して、数々の困難を乗り越え、ビジネスとして支援活動を継続させてきたその姿をご紹介した。

 今回の後編では、そもそもパンの缶詰や救缶鳥プロジェクトという、世界に類例を見ない商品や被災地支援システムが、どのようなビジネスプロセスの中から形成されてきたのか、その過程を明らかにしたいと思う。そして、秋元さんが、今、どこに向かおうとしているのか、事業承継の問題も含めて、新しい展開について紹介したい。

 →地方企業が10万缶の“パンの缶詰”を被災地へ、パン・アキモトの支援活動とは(前編)

パン・アキモトの秋元義彦社長

原点は阪神・淡路大震災の被災地教会支援

 「パン・アキモトの創業者である父は、戦前から戦中にかけて大日本航空(現在のJAL)で、国際線の無線通信士を務めていて、英語やフランス語に堪能な当時としては珍しい国際派で、また熱心なクリスチャンでもありました。

 終戦直後の1947年に脱サラして、故郷の那須塩原で『秋元パン店』を始めました。その背景には、敗戦の混乱の中で食糧難に苦しむ人々を助けたいという気持ちがあったようです。同時に『これから日本人の生活は欧風化し、パン食が一般化する』という環境変化への読みがあったと聞いています。

 そして何よりも父自身が仕事柄、長年にわたって各国のパンに慣れ親しんでいたこともあって、当時の日本人としてはパンに対する知識や経験が豊富だったという点に強みを感じていたようです。さらに言えば、戦地に行っていないとはいえ、父の思いとして『アジアに償いをしたい』というのがあって、パンの製造技術を学びたいアジアの人々を集めて訓練し、製造機材とともに帰国させてあげようという意図があって創業したと聞いています。

 私自身は、1976年に法政大学経営学部を出てから2年間都内のパン屋で修行し、帰郷後に跡取りになったのですが、大きな転機が訪れたのは1995年です。

 この年に阪神・淡路大震災が発生したわけですが、父はクリスチャンだったことから関係の深かった神戸の教会に対して「パン屋として何か手伝えないだろうか」という思いに駆られたのです。そこで焼きたてのパンをトラックでリレー輸送して被災地の教会に送ったのですが、輸送に時間がかかったこともあって、結局、約3割のパンが廃棄されてしまいました。

パン・アキモトの直営店

 パン職人として、こんなに残念なことはありませんよね。1人でも多くの人に喜んでもらおうと思って丹精込めて焼いたパンですから。でも、それは先方も同様で、というよりは、先方にとってはより切羽詰まった問題だったでしょう。おいしくて保存性のあるパンを作って送ることが、その時から、双方にとっての緊急の課題になったのです」

 被災地・神戸からの熱い期待を背に受けて、開発は順調に進んだのだろうか?

 「難航しましたね。おいしさと保存性は両立が難しく、何度も実験しては失敗ということを繰り返しました。

 突破口が見出せないでいたある日、たまたま近所の農産加工場を通りかかったんです。そこでは地元の産品を缶詰にして出荷しているのですが、その製造ラインを見た瞬間、『そうだ! これはパンにも応用できるかもしれない』とひらめいたのです」

 それこそが「パンの缶詰」というコンセプトが生まれた瞬間だった。

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