近くを自転車で散策していた男性がいた。小林功さん(68)だ。この近くには親類や知人が住んでおり、亡くなった人が多く、行方不明の人もいるという。
「このあたりは、道がなくなっており、海になっていました。近くに家がありますよね。あの家が海に沈んでいたんです。ただ、工事が進んで盛り土をしたので、道が出来たんです。かさ上げをしないと水が入ってきてしまう。冠水もしていましたが、雨がちょっと降れば、海から来るというよりは、下水から(水が)上がってしまうんですよ。満潮時に冠水してしまう。1日2回です。残った家でも毎日浸かってしまう。私も釣りが好きなものですから、ここにはよく来ていました」
また、避難生活の話もしてくれた。「渡波駅付近に住んでいるのですが、当時は出かけていました。地震があって、『津波がくる』というので高台に避難しました。瓦礫があって家に近づけなかったのですが、2日かかってようやく家に戻ることができました。妻は家にいたんですが、家の中の少し高いところにいて、逃げる場所がなくなったそうです。膝まで浸かったけれど、なんとか助かった。それ以上(津波が)来なくてよかったです。このあたりみたいに津波の直撃はなかった。渡波小学校に避難しましたが、寒いし、食糧はないし、もう地獄でした」
当時は雪も降っていたので、避難所生活は耐えられなかったという。そのため、娘がいる仙台へ行った。
「(娘の住んでいるところは)高台なので大丈夫でした。ただ、水道の復旧は遅れました。今は自宅に戻って住んでいますが、工事待ちです。なかなか大工さんが忙しくて、また材料がないとの話です。だから、ゴザを敷いて生活しています。ライフラインは5月19日にガスが入って、整いました。それまでは近くのホテルや自衛隊の支援でお風呂に入っていました。今更、他に移るわけにはいかない。もう年ですから我慢して、少しお金はかかるけど、直して住もうと思います」
また、塩富町の付近も冠水に悩まされていた。周囲では満潮でなくても、海水面と陸地の高さがほぼ同じになってしまっている。
のりの養殖業を営んでいる丹野典彦さん(42)は、地震があったとき工場内で作業をしていた。「津波が来る」となったので、高台に避難せずに船に乗り込んだ。船の方が安全だと思ったからだ。
家に隣接している、のり工場を案内してくれた。工場の前には直売所もある。冠水がひどい時期には、50センチほど海水が入ってしまうという。
「家は大丈夫。しかし、工場がダメ。繊細な機械なので、機械1つの修理だけでも600万円はかかる。船は助かったけど、船の保険はあっても機械の保険はない。市でも全壊と半壊の判定をしているが、表面的にしか見ない。工場は一部損壊扱いだから、義援金は出ない。それでも仕事を辞めようとは思わなかった。頑張るぞ、という仲間もいますし。補償の問題は考えないようにしている。考えていたら、前に進まない」
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