順調に桐朋学園大学音楽学部ピアノ科に進学した彼女に20歳の時、転機が訪れる。
「オーストリア・ザルツブルクにあるモーツァルテウム音楽大学(参照リンク)の夏期セミナーに参加したのですが、そこで大きな衝撃を受けたのです。日本と欧州の音楽教育のあり方にあまりに大きな差があることを知り、『欧州に留学したいなあ』と痛切に思うようになったのです」
日本ではとにかく正確に演奏することが求められ、至らない部分を厳しく指摘されることが多い。しかし、欧州では単に正確な演奏をするだけの優等生は求められない。「自分はどう演奏したいか」という表現が重要視され、それを育むための指導が主となる。
「私は高校・大学を通じて、自分を出し切れていないもどかしさ、違和感をずっと感じていたのですが、その原因がやっと分かりました。このセミナーに参加して以降、ピアノの練習に励みつつ、ドイツ語を一生懸命勉強するようにもなりました」
当時から、ショパン、ラフマニノフ、シューマンなどが十八番だった浦山さん。特に、ショパン、ラフマニノフの作品特有のメランコリックな曲想に強くひかれていた。1994年、大学4年生の時、ポーランドのワルシャワ音楽院からアンジェイ・ステファンスキ教授が来日、そのピアノリサイタル(オール・ショパン・プログラム)に接した浦山さんは圧倒される。
「洗練された中にも土臭い香りのあふれる演奏で、『これだ! 私の求めていた音楽はこれなんだ!』って思ったのです。それで、ポーランドのワルシャワへ留学することを決意しました」
浦山さんが留学したのは、東西冷戦が終わってまだ間もないころ。
「ワルシャワは石畳などに歴史を感じましたが、どこか憂いのある寂しい街だなあ……という印象もありました。でも、人々の助け合いの精神は素晴らしく、もてなしの心や人間的な暖かさに満ちている街でもありました」
それにしても、ポーランド語をしっかりと修得した上での留学だったのだろうか?
「いいえ、あいさつ程度しか分からない状態で行きました(笑)」
しかし、持ち前の明るさを武器に積極的にコミュニケーションをとることで、彼女はまたたく間に現地社会に溶け込んでいったようだ。「人が好きというか、人恋しいので、すぐに仲良しになってしまうのです」
ワルシャワ音楽院(ショパン音楽アカデミー)の修士課程に相当するコースで学んだ浦山さんは、1995年にラジヴィーウ国際ピアノ・コンクールで優勝、および最優秀ショパン賞を獲得したのをはじめ、いくつもの国際コンクールで輝かしい成績を収める。
1996年にワルシャワ音楽院を修了した彼女は、ロンドンでユダヤ系ロシア人のスラミタ・アロノフスキ氏のプライベート・レッスンを受けることになる。
「先生は『メッセージ性があってこそ芸術』という考えの持ち主で、そこに私は欧州芸術の本質を見いだしたのです」
ロンドン時代、彼女はウラジミール・アシュケナージ指揮のフィルハーモニア管弦楽団とグリークのピアノ協奏曲で共演したのをはじめ、世界のクラシック・シーンのひのき舞台で輝かしい活躍を見せ、それはその後10年近くに及んだ。
そんなある日、浦山さんは帰国を決意する。2005年のことだった。
「『鼓童※』が日本からロンドンに来て、ロイヤルフェスティバルホールで公演したのを観て、血湧き肉踊るのを感じたのです。遠い異国の地で思いもかけず自分のルーツである日本の伝統文化に触れた喜びは大きかったですし、それとともに日本への郷愁の念が募ってきました」
2005年秋、ショパンを敬愛する彼女は日本の土を踏み、こう思ったそうだ。「ショパンは故国に帰れなかったけど、私は帰れた」
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