転換点となったG-SHOCK、カシオはスマートウオッチを作るのか――増田裕一さんG-SHOCK 30TH INTERVIEW(2/5 ページ)

» 2013年11月27日 18時15分 公開
[吉岡綾乃,Business Media 誠]

G-SHOCKの転換点――5900/6000シリーズが日本で初のヒットに

――これまでのG-SHOCKを振り返って、増田さんの目から見て「これが転換点だった」というモデルはどれでしょう?

増田: まずは一番初め、初代G-SHOCK(DW-5000C-1A)ですよね。でも、日本で最初にヒットしたのは83年に出した初代じゃなくて、1989〜90年頃に出した5900シリーズ(DW-5900C)なんです。それから6000シリーズ(DW-6000)。

 G-SHOCKは長いこと、日本よりも米国で売れていました。いろいろバリエーションを作るということもなく、1モデルに思いを込めて、同じような形でずっと作っていました。でも(飽きられることもなく)、米国では売れ続けた。当時われわれは、50メートル、100メートル、200メートルと防水性能のランクでデジタル時計のラインアップを分けていました。その中で最上位、さらに耐衝撃性がついたものがG-SHOCKというイメージで考えていたんです。あるとき、現地(米国)に駐在している者に聞いてみたんです。そうしたら「G-SHOCKって、(カシオの他の腕時計と)別のステージにあるよ」というのです。

 G-SHOCKはG-SHOCKとしていろんなデザインの展開を広げていったらいいのではないか? そう仮説を立てて作ったのが、5900と6000です。当時としてはかなり大きなフェイスで作ったので「どうしてこんなの作ったの?」とだいぶ言われました。今ならそうでもないんですけどね。米国ではG-SHOCKが売れていたから、現地の販社が「5900も6000も欲しい」と言うんです。でも日本ではあんまり売れていなかったので「6000だけでいい、5900は要らない」という話になった。

 日本では売っていないでしょ? そのためにこのモデル(5900)が米国から逆輸入という形で日本に入ってくることになってしまった。1990年代最初のころ、それが「渋カジ風だ」と言われて、若い人たちにG-SHOCKがハマったんです。これがきっかけでだんだん市場が盛り上がっていき、日本でも売れ始めた。そういう意味で、5900と6000はターニングポイントなんです。

1989年発売「DW-5900C」(左)と1990年発売「DW-6000GJ-1」(右)

――日本には6000しかなかったために、日本にない5900が逆輸入された。海外から輸入したものが並ぶお店にG-SHOCKが並ぶようになり、それがおしゃれだということになり、ブームにつながったのですね。

増田: その後ですよね。G-SHOCKがある程度売れてきて、初代G-SHOCK(DW-5000系)が“オリジン(起源)”だと言われるようになった。キアヌ・リーブスの『スピード』という映画にも取り上げられて、DW-5600が「スピードモデル」なんて呼ばれるようになり、そこから日本でもヒットしました。これが一つめの大きな転換点でした。

1996年発売の「MR-G」(MRG-110T-8)。フルメタル仕様のG-SHOCKだが、耐衝撃構造や20気圧防水は変わらず

――ほかに、転換点といえるモデルというとどれでしょう?

増田: それから「MR-G」ですかね。G-SHOCKはそれまで全部樹脂でしたが、MR-Gはメタルで作ったのに、今まで通りの耐衝撃性を実現したモデルです。MR-Gを作ったのも、(初代G-SHOCKを開発した)伊部です。

 当時社内で決めていた耐衝撃性(の基準)は、メタルでは無理だったんですね。自重があるから、落としたりぶつけたりしたときに、衝撃をまともに受けてしまうのです。でも彼はもともと設計をやっていた人間なので、自分でアイデアを出しながら技術的にいろいろこだわって……相当難しかったのですが、何とかしてしまった。これも大きいところですね。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.