SASが開拓した北極航路と、北欧の自由気ままな休日秋本俊二の“飛行機と空と旅”の話(2/6 ページ)

» 2012年11月16日 08時00分 公開
[秋本俊二,Business Media 誠]

2つの地域の“橋渡し役”に誇り

 SASはデンマーク、ノルウェー、スウェーデンのスカンジナビア3国が共同で設立したエアラインであり、クルーもこれら3カ国の出身者がほぼ均等に乗務している。加えて東京/コペンハーゲン線には成田ベースの日本人クルーが各便に2名ずつ乗務。ある日本人クルーは「日本と北欧の人たちの交流がもっともっと深まればいいな、というのが私たちの願いです。遠く離れた2つの地域の“橋渡し役”ができるこの仕事に、誇りとやりがいを感じています」と話していた。その距離を隔てた2つの地域の交流が、かつてはそう簡単でなかったことは想像に難くない。

飛行機と空と旅 フライトで出会ったSASのクルーたち。フレンドリーな気質はいかにも北欧らしい

 SASの東京への初フライトが実現したのは1951年4月。その路線はストックホルム/バンコク線を延長する形で開設された。当時は南欧、中東、インド、タイ、香港を経由する南回りルートで、飛行には計50時間以上を要したという。この長時間フライトをなんとか短縮したい──多くの人たちのそんな願いを叶えるためにスタートしたのが、SASの「北極航路開拓プロジェクト」だった。

 北極圏を横断するために最初に必要だったのが、新しい航法技術の開発である。子午線の間が次第に狭くなり、やがて北極の一点に達する従来の航図では、ナビゲーターは飛行中に常にコースの是正を繰り返さなければならない。とくに星が見えず、太陽の位置もはっきりしない春分や秋分の薄暮の季節には、その航図では位置測定が不可能だ。また地球の磁北極は地図上の北極点より南に約1600キロずれているため、北極では通常のコンパスは南を指してしまう。方向を安定的に把握することが極めて難解だった。

新航法技術で北欧の翼を世界へ

飛行機と空と旅 グリニッジを南にして子午線の0度を通し、アラスカから南太平洋に伸びる線を便宜上“北”にしたポーラー・グリッド地図(提供:スカンジナビア航)

 SASの技術陣は、それらの問題を一つひとつ解決するための取り組みに着手した。まず完成させたのが、従来の航図に代わる北極を中心とした「SAS900北極地図(格子形地図)」だ。グリニッジを南にして子午線の0度を通し、アラスカから南太平洋に伸びる線を便宜上「北」に──これがいわゆる「ポーラー・グリッド地図」である。

 さらにコンパスについても、1分間に2万4000回転するコマを組み込み、フライト前にセットした飛行方向を20時間持続できる性能を備えた「北極通過ジャイロ・コンパス」を開発。と同時に、太陽が水平線のすぐ下にあり位置測定が難しいときに使うコンパスとして、偏光の原理を利用した「コルスマン・スカイ・コンパス」が考案された。

飛行機と空と旅飛行機と空と旅 SASは新しい航法技術の研究に早くから力を注いできた(提供:スカンジナビア航空)

 もちろん55年前の北極航路開設も、新しい航図やジャイロ・コンパスの開発など技術面での取り組みだけでは決して実現しなかっただろう。

 「新規ルートの開設に先立ち、選ばれたクルーたちは当時16回にもおよぶ訓練を受けたと聞きます」と本部スタッフの一人が話していたのを思い出す。「北極圏に緊急着陸しなければならない場合に備えて乗客・乗員を保護するための特殊な衣類やテントが開発され、暖房装置や緊急の無線送信装置、さらには白熊を一撃でしとめるための特殊な銃までが用意されたそうです。道具類の中には4人用の寝袋などもあったようですよ」

 なるほど、寝袋は単独で使用するより4人で1つにくるまったほうが、温かさを保つためにはより効果的であるという発想だったのだろう。スカンジナビア半島北部のラップランドを舞台に、それら特別に用意された装備品の扱い方などの訓練がクルーたちに繰り返された。

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