第56鉄 東陽町発亀戸行き、都電の廃線跡を歩く杉山淳一の +R Style(2/5 ページ)

» 2012年01月10日 11時11分 公開
[杉山淳一,Business Media 誠]

南砂緑道公園を北へ、東へ

 東陽町駅を出て永代通りを東へ。この永代通りには、かつて都電が走っていた。日本橋から東陽公園までは28系統と38系統が共用し、28系統は東陽公園前を出ると、先程の交差点から四ツ目通りに入り錦糸町へ直行する。38系統は永代通りをもう少し走って左折。そこから専用線に入った。この専用線が、現在は南砂緑道公園となっている。

 南砂団地を囲むように道路があり、その道路に並んで緑道がある。もっとも、線路跡と言われるまでは気づかないほど。真夏でも涼しく感じるほど樹木が多く、小川を埋め立てたと言われたら納得してしまいそうだ。お散歩中のお年寄りに聞いたら、背の高い木はほとんどが桜で、花見の時期は桜のトンネルになるという。桜は落葉樹だから、冬は陽射しがたっぷり注ぐ散歩道になるだろう。

廃線跡には見えないほど庭園っぽい道

 線路2本の幅は歩道と自転車道に使われており、二つの道はなぜか波形を描くように曲がって何度も交差する。もちろん線路が交差していたわけはなく、まっすぐ歩くより楽しかろうという配慮かもしれない。自転車と歩行者の連続交差なんてちょっと気になるけど「自転車もゆっくり走ってほしい」という意図だろうか。

 緑道散歩で最初に出会った遺跡は都電関連ではなく「長州藩大砲鋳造場跡」だ。長州藩が幕府の許可を得て大砲を鋳造したところ。この大砲は当初、三浦半島の砲台に置く予定だった。しかし実際は下関に置かれ、関門海峡の封鎖に使われたという。

このあたりには長州藩の大砲鋳造場があったそうだ

貨物線との交差部で都電の遺跡と出会う

 南砂緑道公園は、南砂団地を囲むようにほぼ直角に東へ曲がる。歩道と自転車道は並んで直線に延び、正面にガード橋が見えてくる。この鉄橋は廃線ではなく、現役の貨物線。越中島支線という。歩道整備のために嵩上げされているけれど、線路時代は下り坂で、都電の線路はもっと低いところを通っていたはずだ。ちなみに南砂団地は汽車製造という鉄道車両メーカーの工場跡地で、製造された車両は越中島支線から出荷された。

 その鉄橋の手前で、ようやく都電の遺跡が見つかった。レールと車輪だ。説明書きには、この緑道がもと都電(城東電車)の用地であること、線路は昭和2年に敷設されたことなどが書かれている。38系統のこの区間は、都電に編入される前は城東電気軌道が運行していた。その証拠は意外にも、JRの貨物線が教えてくれた。この越中島支線の鉄橋の名前が「城東電軌こ線ガード」になっている。こ線の「こ」はおそらく「跨(またぐ)」という字だろう。設置者の名前はJR東日本。JRの発足は1987(昭和62)年で、都電廃止のずっと後だが、古い「城東電軌」の名前が残されている。

やっと都電らしい「遺跡」を見つけた

 この鉄橋をくぐり抜けると、緑道は明治通りに突き当たる。38系統はここから明治通りの併用軌道に入り、路面電車として北へ向かった。私もそれにならって明治通りの歩道を歩く。明治通りは都営バスの運行系統が多く、都営バスとしては珍しい「急行」が走っている。

アーチの向こうに越中島支線のガードが見える

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