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コラム

なぜベルクには人が集まるのだろうか? 新宿駅にある小さな喫茶物語(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(1/7 ページ)

「新宿駅から出て行け!」と、ビルオーナーから迫られている喫茶「ベルク」。そこで立ち退き反対の署名を集めたところ、1万5000人以上の署名が集まった。なぜこれほどベルクは愛されているのか? その謎に迫った。

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嶋田淑之の「この人に逢いたい!」とは?:

 「こんなことをやりたい!」――夢を実現するために、会社という組織の中で目標に向かって邁進する人がいる。会社の中にいるから、1人ではできないことが可能になることもあるが、しかし組織の中だからこそ難しい面もある。

 本連載では、戦略経営に詳しい嶋田淑之氏が、仕事を通して夢を実現するビジネスパーソンをインタビュー。どのようなコンセプトで、どうやって夢を形にしたのか。また個人の働きが、組織のなかでどう生かされたのかについて、徹底的なインタビューを通して浮き彫りにしていく。


 世界最多の乗降客数を誇るターミナル駅・新宿。その東口「ルミネエスト」地下1階に店を構え、味の追求によって各層の顧客から支持を集めている「ベルク」。前編では、日本の伝統的老舗企業とも相通じる、ベルクのユニークな経営のあり方について概要をご紹介した。そこでこの後編では、経営者の井野さん、迫川さんの人生行路とベルクの歴史、そして、今抱えているルミネによる立ち退き要求問題を含めた今後の展望などについて明らかにしていきたい。     

「ベルク」の基盤を作ってくれたのは、大臣経験者の祖父


ベルクの井野朋也店長

 ベルクの現・経営者である井野朋也さんは、1960年、東京・四谷に生まれた。いて座のA型。父親は詩人で、クラシック音楽にも造詣が深かった北野恭氏である。

 もう1人、井野さん、そしてベルクの成り立ちを語る上で絶対に外すことができないのが、祖父の故井野碩哉(ひろや)氏(1891年〜1980年)の存在だ。NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』にも登場したので覚えている人もいるかもしれない。

 彼は東京帝国大学を卒業後、戦前の農林省(現・農水省)の官僚として頂点の事務次官にまで昇りつめた。そして1941年、近衛文麿内閣、続く東條英機内閣で農林大臣を歴任。しかし開戦内閣での要職歴任が影響し、戦後、GHQによってA級戦犯指名を受けて、逮捕された。そして、通称「巣鴨プリズン」に収監されてしまう。

 「さすがに死刑を覚悟していたらしいですよ」と井野さんは語る。そのせいだろうか、監獄での碩哉氏は、A級戦犯仲間と囲碁三昧の日々だったという。

 だが状況は変わり、幸運にも碩哉氏は釈放される。そして公職追放が解けると政界に復帰。1959年、第2次岸信介政権が内閣改造を行った際、法務大臣として、再び閣僚入りを果たす。

 「岸首相は、東條内閣時代に商工大臣(現在の経済産業大臣に相当)を務めており、農林大臣だった祖父とは盟友だったみたいです」

 時あたかも、日米安全保障条約を締結するか否かで騒然としており、いわゆる「安保闘争」が日本全国で起きた時代である。全学連の国会突入に参加した東大生・樺(かんば)美智子さんが警官隊との衝突時に死亡したほか、多数の逮捕者が出たこの難局に当たり、碩哉氏は法務大臣として指揮を執り、乗り切ったのである(1960年、安保条約締結。くしくもこの年、井野朋也さん誕生)。

 「実はこの祖父が、新宿駅一帯の大地主さんと親しい関係にあり、一緒に駅ビルを建てたんですよ。1963年ころだったでしょうか。そして、新宿ステーションビルの初代社長に収まったんです。そして大日本精糖を辞め、脱サラした私の父(詩人・北野恭)に場所を提供して、1970年に開かせたのが、現在のベルクへとつながる初代『ベルク』なんですよ。当初は、アルコール類を出さない純喫茶でした。と言っても、公衆電話がズラリと並んだ一角を改造して作ったような状況でしたけどね」と笑う。

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