続編準備中? 少年A『絶歌』の社会的意義スピン経済の歩き方(5/5 ページ)

» 2015年06月23日 08時00分 公開
[窪田順生ITmedia]
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それでも「社会的意義」はある

 先ほど紹介したように、「サムの息子」ことデビッドも人気司会者ラリー・キングから根掘り葉掘りと質問攻めにあった。不可解な大量殺人の謎を解く鍵はきっとこの「犯罪者」の語る中にある。そんな風に考えて、ラリーも全米の視聴者たちも固唾(かたず)を飲んで、デビットの口から出る言葉に耳を傾けたが、そこから出てくるのは「子どものころは心の問題を抱えていてね。いつも孤独だった」という、誰かがどこかで言ったような凡庸なセリフだけだった。彼らも「答え」を求めたが、彼ら自身も分からなかったのだ。

 そんなことを言うと、じゃあやっぱり『絶歌』も単なるゲスい「犯罪ビジネス」じゃないかと思うかもしれないが、個人的にはそれでも「社会的意義」はあると思っている。

 冒頭で引用したように、元少年Aはこの本を遺族に了承を得ずにダマテンで出した言い訳を「あとがき」に綴っている。彼は言う。被害者遺族が傷つくこともわかっていたが、本を出すしか生きる道がなかった。“衝動”が抑えられなかった、と。

 小さな命が傷つき消え去ることが分かっていても、“衝動”を抑えられず凶行に走った14歳のころと何も変わっていないではないか。こういう犯罪者を「病気」扱いにして、それを「治療」という矯正教育で施して野に放つという選択はやはり間違っていたということを、『絶歌』は教えてくれている。

 世の中には、周囲の人間がいくら努力をしても「変わらない者」がいる――。この厳しい現実を知らしめただけでも、この本が出た意義はある。

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