ベルリンの壁崩壊から26年 自動車メーカーの世界戦略はどう変わった?池田直渡「週刊モータージャーナル」(2/4 ページ)

» 2015年06月08日 08時00分 公開
[池田直渡ITmedia]

ベルリンの壁崩壊でマーケットが急拡大

 こうした中で迎えた1989年、欧州に激震が走った。ベルリンの壁が崩壊し、欧州マーケットが新しい市場に変わった。旧EC諸国は旧東側諸国を組み込んで1992年にEUへと発展する。旧EC圏、つまり先進国に隣接した地域に、安くて豊富な労働力と、安価な土地が突如出現したのだ。これによって欧州は急速な発展を始めるのである。

 当初は安い労働力にすぎなかった旧東側労働者は、労働賃金を得ることで消費者としてのポテンシャルを高めた。産業育成が顧客の育成に直結するという日本の高度経済成長時代と同じ絵柄がそこにでき上がった。1990年代後半になると旧東側のブルーオーシャンを目指し、「ボーダレス」を合言葉に、世界中のメーカーが一気にグローバルマーケットを視野に収める時代に変わっていったのだ。

グローバル化の波に飲み込まれて消えたローバーの中で、唯一ブランドとして生き残ったのが「ミニ」。中央はローバー時代のミニ。両側にはBMWのブランドになってからリメイクされた2世代のミニ。ミニ以外のローバーブランドは10ポンドで売り払われ話題になった グローバル化の波に飲み込まれて消えたローバーの中で、唯一ブランドとして生き残ったのが「ミニ」。中央はローバー時代のミニ。両側にはBMWのブランドになってからリメイクされた2世代のミニ。ミニ以外のローバーブランドは10ポンドで売り払われ話題になった

数の原理

 今となっては懐かしい言葉だが、この当時世界の自動車メーカーは「400万台クラブ」をキーワードに、業界再編へ向かって激しく動いていた。

 上述したようなマーケットの急拡大に加えて、衝突安全性能の評価が急速に各国に広まったこともきっかけの1つといえる。第三者機関による衝突安全性実証実験は1979年に始まった米国の「New Car Assessment Programme(NCAP)」が端緒だが、1990年代に入ると日本と欧州もこの流れに追随することになる。日本は1995年にJNCAPが、欧州では1997年からユーロNCAPが導入され、世界の主たるマーケットでクルマを販売しようと思えば、各エリアの安全性実験で優秀な成績を収めなくてはならなくなった。

 ところが衝突安全はとてつもなくコストがかかる。聞くところよれば、1車種のテストプログラムに数十億円かかるという。衝突時の変形の仕方はボディタイプごとに違うので、ドア数やワゴン型などのバリエーションまで含めると膨大な数になる。加えてこのころになると、車両制御の電子化が加速し、こちらもまたコスト高につながっていった。

 こうした開発コストの暴騰をまかない、事業を継続していくには年間400万台程度の規模がないと難しいという説が広まり、自動車メーカーの合従連衡が一気に加速していく。

 このグローバル規模での業界再編は、必ずしも合併とは限らず、提携なども含むので、以後は全部まとめてアライアンスという表現を用いる。また、以下に挙げるブランドのグループ化の時期や理由は必ずしもこの潮流によるものだけではないことに加え、ローバーグループのように、ブランド別に分割されながら、BMWと英国の投資グループ、フォード、タタとめまぐるしく所有権が移り変わって、どの時点でどこの傘下にあったかは時間軸をどこにとるかによって変わってくるものもある。

 完全に把握するには図表を作成しないと無理なものもあるが、ここでは400万台クラブの成立がどのくらい世界規模で起こっていたのかを把握することが趣旨なので、業界がどのように再編されていったかという点だけざっくりと押さえておく意味はある。

  • ダイムラーとクライスラー
  • ルノーと日産
  • フォルクスワーゲンを軸に、アウディ、セアト、シュコダ、ベントレー、ブガッティ、ランボルギーニ
  • フォードを軸にリンカーン、マツダ、ジャガー、ランドローバー、アストンマーティン
  • BMWを軸にローバーグループとロールス・ロイス
ルノーと日産のアライアンスを象徴するカルロス・ゴーン氏。ルノーと日産両社のCEOを兼任する ルノーと日産のアライアンスを象徴するカルロス・ゴーン氏。ルノーと日産両社のCEOを兼任する。

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