――ミニシアター文化というのはどういうもののことなんでしょうか
大寺: 80年代くらいからミニシアターというものがあちこちにできて、その周辺の文化が栄えたんです。そのころは現在のユーロスペースやシネマシャンテ、シネマライズのような、渋谷・銀座を中心に独自のプログラムを組む小規模の映画館がたくさんありました。
80年代後半から90年代初頭にアート映画の黄金期があったけれど、バブルが崩壊してセゾン文化とともにミニシアター文化も衰退していきました。
――私は90年生まれで80年代の映画文化というものに対しあまり実感が湧かないのですが、どのように映画文化が栄えたのですか
大寺: 当時はバブル経済で世の中が華やかになっていく時期で、僕は高校生のときから受験勉強なんかを口実によく東京に来ていました。
1980年代のミニシアター文化にはセゾングループという明確なバックがありました。もうかっていたとは思えないけど、セゾングループの会長の堤清二さんが文化人だったから、彼らの努力でセゾン美術館やリブロ、シネセゾンといった文化施設が維持されていました。
そのころは僕自身も大阪から東京に出てきて、自分の人生が変わるタイミングでした。映画自体は中学くらいから見ていたけれど、それと全然違う規模と質で世界中の映画・音楽・小説といった文化に触れることができた。ちょうど日本にそういったものが入ってきた時期でもありました。
マドンナのようなメジャーな歌手からザ・シュガーキューブス(※6)のようなマイナーなバンドまでを同じレベルで楽しむことができる――ボーダーレスで、フラットで、さまざまな刺激があって毎日おもしろいものがあった時代です。個人的な人生の転機と日本の文化・社会の成熟というものがタイミングよく重なったんです。
――そうした文化に触れて大寺先生はどのように感じましたか
大寺: 『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』と関わる中で、僕は学生だったんだけれど世界的な映画監督になっていく篠崎誠さん(※7)や青山真治さん、黒沢清さんのような人たちと対等に話せたんです。年上の映画評論家の人も僕のことを対等に扱ってくれました。
そこで原稿料としてもらうお金以上の体験を得られて、それはすごく貴重なことでした。お金はなかったけれど、社会全体が浮ついていて本当に楽しくて、文化に触れるのはこういうことなんだという感覚がありましたね。
そういうことはいまはもうないですよね。社会全体が貧しくなっているというのもあるんだろうけど。景気の問題も大きいし、個人でどうこうできるレベルではないから、もう取り戻せない文化だけど、ただ、いまの状況はひどすぎると思いますね。
――いまの文化の状況についての話が出ましたが、いま世界的に映画はどうなっているのでしょうか
大寺: 日本に限らず世界的にマイナーなものが見られなくなっていますね。グローバリゼーションが進展してなんでも効率重視になっている。昔は、一本ヒット作を作ればそれを作った人が、ある程度文化のためには必要だからという理由で売れないものを作る隙間があったけど、世の中全体から隙間がなくなってきています。
例えば、ジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダース、マノエル・ド・オリヴェイラといった世界的なアート映画を作る映画監督をプロデュースしていた人たちが昔はいっぱいいましたが、いまは世界で10人くらいしか残っていないと言われています。現役のプロデューサーたちもみんな高齢だから、作家の世界を自由に表現するアート映画を作る人たちはどんどん減っています。
監督がいくら「変わったことをやりたい」と言ってもそういうことを許してくれるプロデューサーがいないとどうしようもないので、世界的に見てもアート映画を撮る余地はなくなってきていますね。アート映画が生きていけるような場所がなくなっているというのは間違いないです。
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