烏賀陽: 裁判官の多様性を認めない。意見を言うことすら認めない。そんな裁判所内部の不自由や言論の不自由が国民にどういった影響があるのか考えてみました。
認知症を患っているお年寄りがいたのですが、家族が少し目を離してしまった隙に外出して、電車にはねられるという事件がありました(名古屋地裁:2013年8月9日、名古屋高裁:2014年4月24日)。第一審判決は、奥さんだけでなく、別居をしている長男にまで請求を認めました。こんな判決を出されたら、認知症のお年寄りとひとつ屋根の下で暮らせませんよね。いや、一緒に住んでいなくても責任が及ぶのでどうしようもない。
瀬木: 以前だったら、こんな“トンデモ判決”は出なかったでしょう。無理のない低額和解を勧めて、鉄道会社が「それではダメ」ということであれば「家族に注意義務違反を認めることは困難である」として棄却ですよ。
鉄道会社は株主からの追及を考えて訴えただけで、必ずしも勝敗にはこだわりません。しかし、このような悪い前例を作ってしまうと、鉄道会社は訴えざるを得なくなるし、認知症を患うお年寄りの面倒を見ている家族や施設が委縮してしまう。ひとつの判決によってさまざまところに影響が及ぶことを裁判官は意識しなければいけません。
烏賀陽: なぜそれができないのですか?
瀬木: さまざまな問題があるのですが、最終的には裁判官が当事者の視点に立って判断できていないから。この判決でいえば、原告は棄却という結果になっても不満はあるものの仕方なく受け止めるでしょう。ところが、近年の裁判官の多くは共感の能力や想像力を失ってしまっているので、こういう判決が出てくるんですよね。
ちなみに、判決の内容に驚いているのは、烏賀陽さんと私だけではないですよ。経済誌の記者も、老人ホームの職人も、家族法学者も、憲法学者も驚いていました。そしてネット上でも批判の声が出ていました。「『認知症の老人は座敷牢にでも閉じ込めておけ』とでもいうのか?」と。
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