渋谷―羽田アクセス線対決! 東急が「蒲蒲線」に前向きになった理由杉山淳一の時事日想(2/6 ページ)

» 2014年09月12日 08時00分 公開
[杉山淳一Business Media 誠]

「蒲蒲線」の当初の目的は「大田区をひとつに」

 「蒲蒲線」とは、東京都大田区のJR蒲田駅と京急蒲田駅、二つの「蒲田駅」を結ぶ路線である。1987年に大田区が「東西連絡線」として調査を始めた。その12年後、1999年に国が空港アクセス路線としての可能性を調査。その翌年(2000年)に前述の「運輸政策審議会答申第18号」に盛り込まれた。2015年度までに整備着手することが適当という“お墨付き”であった。

 そもそも、なぜ「蒲蒲線」が構想されたか。理由は大田区の交通網の特殊性にある。東京都大田区は、東京23区でもっとも面積が広い。しかし、東西方向の人口流動は分断されていた。南北方向は東海道本線(京浜東北線)、京急電鉄本線という幹線がある。京急に寄り添うように国道15号もある。そして、この3路線が東西の境界線となってしまった。この境界から西側は山王・田園調布・玉川に代表される住宅街。東側は中小工業地域が多い。それぞれに住まう人々の生活スタイルや文化も異なる。

 京浜東北線と京急を結ぶ鉄道がなければ、東西地域の交流がなく、大田区としてひとつにまとまれない。バスやマイカーがあるといっても、4年前まで東西方向の環状8号線は京急電鉄の開かずの踏切に阻まれていた。京急電鉄の蒲田立体交差が完成して、ようやく道路交通が活性化されたばかりである。

 1987年当時、蒲蒲線構想は「大田区をひとつにする」という大義名分があった。「JRと京急蒲田駅は100円で乗れるバスがあるし、歩いたってたいしたことない。だから不要」という意見もあったようだけど、それは視野が狭い。大田区はもっと広い範囲で、少なくとも東急沿線と、京急沿線の往来を整備しようと考えていた。ただし、広い範囲といっても大田区内に限られる。だから東京都は「蒲蒲線」に積極的ではなかった。大田区のみの便益なら、大田区主体で整備すべきという考えだったようだ。

photo 大田区は東西に分断されている(白地図専門店のデータをもとに筆者作成)
 (※ 東西の記述に誤りがありましたので修正しました。お知らせいただきました読者の方、誠にありがとうございます)

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