鉄拳制裁はなくなった? 楽天・星野監督の人心掌握術臼北信行のスポーツ裏ネタ通信(2/3 ページ)

» 2013年11月14日 08時00分 公開
[臼北信行,Business Media 誠]

ドライな現代っ子にはゲンコツ親父がうまくいく?

 「あ、でもボクの名前は出さないでくださいね。監督に『何、生意気なこと言ってるんだ!』と怒鳴られちゃいますから」と彼が補足した言葉を耳にして従順なのか愚直なのか、あるいは単におびえているだけなのかと一瞬思ってしまったが、どうやらそうではない。これは紛れもない本音のようだ。まだ、この選手の年齢は20台前半。他の若い主力たちも「星野監督のために」と口をそろえている。

 それで、こう確信した。楽天というチームは30代ぐらいの中間層が少なく、中心的役割を担うのは若手が多い。ここがポイントなのだ。常にドライな考え方を持つ現代っ子と、いつも感情ムキ出しのゲンコツ親父という組み合わせは一見うまくいかなさそうだが、昔かたぎの監督のストレートで分かりやすい物言いが、受身になりがちな今の若い選手には心に響き渡る。

 ビジネスの世界に置き換えれば、もっと分かりやすいかもしれない。ミスをした際に正面からガツンと怒ってくる上司のほうが、陰湿でジュクジュクした言い方の上司よりも部下は話を聞き入れやすいはずだ。

 「人気がある伝統球団に特に多い傾向だが、30代の中間層の選手は自分の立場が危うくなると保身に走りがちになるところがある。言いたいことがあっても言えないままだから、ミゾがどうしても生まれやすい。でも、ウチの球団にはそういうムードがないのです。そこに星野監督という昔かたぎのゲンコツ親父が、うまくフィットしているのだと思います」(球団幹部)

パンツ一丁になって、マウンドに正座しろ!

星野仙一 星野仙一監督のプロフィール(星野仙一記念館Webサイトより)

 では、そんなゲンコツ親父監督が信条とする「魂の野球」の原点はどこにあるのか。それは星野監督がプロの世界に入る前、明治大学野球部に在籍していた時代にまでさかのぼる。闘将自身が今も「未来永劫、オレの恩師」と言い切る人物が、この当時の明大野球部にいた。故・島岡吉郎監督だ。

 ここで両者の師弟の絆を深めた1つのエピソードを紹介しよう。星野監督が明大政経学部2年で、まだ「星野投手」だった1966年春。5月21日に神宮球場で行われた東京六大学野球春季リーグ・早大1回戦で先発した星野投手は序盤の4失点で途中降板し、チームも敗れた。明大合宿所に戻ると島岡監督に呼び出され、こう言われた。

 「パンツ一丁になって、マウンドに正座しろ!」

 名将・島岡監督はときに教え子への“愛のムチ”を振るうこともいとわない。19歳の星野投手にとって監督は鬼よりも怖い人だった。言われるがまま隣接のグラウンドへ走り、そして正座。日が暮れ始めると低い雲が上空を覆い、やがて星野投手は雨に打たれた。

 明大合宿所の部屋の明かりは次々に消え、ついにグラウンドは真っ暗。闇夜におののき目を閉じると、母・敏子さんの顔が浮かんだ。故郷の倉敷に帰りたい。いや、おめおめと帰れば母は悲しむだけだ。ここで負けてなるものか!――。そう心の中で何度も繰り返し自分に言い聞かせ続けていると、降り続けていた雨はようやく夜中にやんだ。

 やがて長い夜が明けた。鳥のさえずりが聞こえ、うっすらとグラウンドに光が差し始める。ウトウトしかけていた星野投手は一塁ベンチを見るとハッとして思わず、目をこすった。これは夢か、幻か。何と、そこに島岡監督が正座していたのだ。自分とともに同じ姿勢で一夜を過ごしていた指揮官に気付き、嗚咽(おえつ)した。

 生まれる前に他界してしまった実父を知らない星野投手は、このとき初めて厳しいながらも温か味のある厳父の存在を知ったという。そして「指導とは何か」についても、ここで身をもって感じ得た。この後、同年10月2日の東京六大学秋季リーグで立教大学を相手に当時としては史上14人目となるノーヒットノーランを達成するなど星野投手は一気に飛躍。そう、ここが闘将伝説の出発点なのだ。「魂の野球」は、明大時代の恩師・島岡監督から植え付けられたものであった。

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