来てよその“日”を飛び越えて――今こそ、震災復興ツーリズムのススメ『あまちゃん』最終回記念(7/9 ページ)

» 2013年09月30日 12時40分 公開
[本橋ゆうこ,Business Media 誠]
誠ブログ

 大川小学校の立地は、大河の堤防に隣接する低地にあり、校舎自体も二階建てと低い。今回の大震災での津波被害を目の当たりにした後の感覚からすると、地域の避難所としては本当に適格だったのか?といささか疑問に思わざるを得ない。

 「千年に一度の大津波など、そうそう予測できるものではない」と、一般論としては言われるかもしれない。だから仕方がなかったのだ、と。

 とはいえ事実として、小学校のすぐ近くを北上川という一級河川が流れており、大雨等による氾濫の可能性も全く想定できなかったというはずはない。そうした通常の洪水被害を考えたとしても、事前に想定されていた避難計画は、本当に妥当なものだったのだろうか?

 そう考えた時、自分の中では明確に答えが決まっていた。

 「大川小は『震災遺構』として残すべきだ。この場所に、地理的条件とともに残すことに意味がある」

 実際に無人になった校舎の前に立つ時、あまりにも校舎裏にある山が「近い」と感じる。だからこそ、誰でもが否応なく考えてしまう。「…どうして大津波に襲われる前に、この裏山へ皆で登って、助かることができなかったのか?」と。

 確かに校舎正面から見える側はヤブに覆われた急斜面で、お年寄りや小さい子供には登るのが難しそうな部分もある。しかし、そこからほんの十数メートル奥へ入ったあたりでは、それほど斜面は切り立ってはいないし、古い時代の墓地の脇には、山の上の林道につながっているという細い小道まであった。校庭に避難していた人々が全員でこの裏山に登ることは、不可能ではなかったのだ。では何故…?

 そんな、いまだハッキリした答えを与えられていない疑問や、もやもやした感じまで含めて、この場所にこの姿のままで、残すべきだろう。

 自然の力を前にした人間の非力さ。文明を過信することの傲慢さ。亡くなった人々の無念さ。今回の大震災で起こった、全ての大きな悲劇を象徴する、物言わぬ「生き証人」のような存在として。

震災遺跡は、原爆ドームに似ている

 ここを見れば、何が起きたのか説明する多くの言葉は、必要ない。

 そう。まるで、ここは「原爆ドーム」のようだ。

 広島の原爆ドームを見た時の、どんなに暑い夏の盛りでも、身体の内側がひんやりと凍っていくような厳粛な感覚と、大川小の校舎を前にした時の戦慄や畏れ、深い悲しみは、とてもよく似ていると思った。その広島の平和記念公園に、こんな文言を刻まれた石碑がある。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから。」

 この碑を初めて見た時、筆者は正直言って、この文言が「誰の、何に対する、どの過ちのことなのか?」が、分からなかった。我々の?敵の?原爆を製造し、使ったことへの?悲劇と知りつつ、戦争を繰り返してしまう人類の?…或いはその答えは、今でも正確には理解できていないのかもしれない。

 広島市のサイトにはこんな風に解説されていた。「この碑は 昭和20年8月6日 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を 平和都市として再建することを念願して設立したものである。碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心が ここに刻まれている」

 かつては広島でも、「終戦後に産業奨励館(原爆ドームの当時の名称)跡を見るのは、辛い過去を思い出させるから早く壊してくれ」という市民の声が少なくなかったのだという。もしもその時に、保存反対の意見のほうが勝っていたら、現在の日本に「原爆ドーム」というものは存在せず、あの大きな戦争の悲劇を、国境や時代を超えて語り継ぐ「生き証人」としての貴重な遺構を、我々日本人は一つ、永久に失ってしまうはずだったのだ。

 そう考えると、大川小学校の問題も「保存か?撤去か?」と、あまり性急に答えを出すのは相応しくないのではないか、と感じる。この場所にまつわる記憶は、地域のものであると同時に、今や我々日本人、いや世界中の人類共有の「記憶の遺産」でもあるのだから。

 そして仮に、恒久的にこの校舎を「震災遺構」として残すとなれば、広島における原爆ドームのように周囲を公園(植樹などによって遺構を目にしたくない心情の人へ配慮した緩衝地帯にもなる)などの形で整備し、地域外から見学者を集めるための旅行会社のツアーに組み込む企画発案や、見学希望者のアクセス向上のため最寄り駅からのシャトルバス路線を新たに設けるべきだろう。それは地元の住民生活にも利するので、保存活動への協力も得やすくなるかもしれない。

 かつて石巻市と周辺六つの町は、いわゆる「平成の大合併」によって一つの広域の市になった。広大な面積を持つに至った市政が、その隅々にまで手が回らなくなっていたのではないか?という懸念は震災以前からあったようだ。「復興といっても市の中心地ばかりが優先されて…」と、車で案内してくれた遺族の方が不満そうに漏らしていた言葉が何となく気に掛かっていた。

 大川小学校を「震災遺構」として将来に渡って残すとなれば、当事者として市や地域の住民達との密な連携は絶対に欠かせないだろう。この問題において両者の良好な協力関係が構築されるように、そのためにも、被災当日に何があったのか?どうして子供達は安全であるべき学校の管理下で被災したのか?という遺族の疑問に、一日も早く誠実な解答が示されることを願わずにはいられない。