来てよその“日”を飛び越えて――今こそ、震災復興ツーリズムのススメ『あまちゃん』最終回記念(6/9 ページ)

» 2013年09月30日 12時40分 公開
[本橋ゆうこ,Business Media 誠]
誠ブログ

それぞれの「震災遺構」を巡って〜「歴史の生き証人」としての、大川小学校

 石巻で3日間の滞在時間を取っていた間、何とかして見てみたいと考えていた場所が複数ある。

 旅先で列車・バス・自転車・徒歩以外に移動手段のない筆者に、車で案内してくれる知人がいたお陰で、石巻市街から遠く離れたとある有名な津波被災の現場を訪れることができた。

宮城県石巻市立大川小学校

 宮城県石巻市立大川小学校。ここで、東日本大震災のあったあの2011年3月11日に、大津波に襲われて74人もの児童と教職員10人が死亡・行方不明になった。まさにその場所である(参照リンク)

 大川小学校の教職員と生徒たちは、津波警報が出ていたにも関わらず、すぐ近くにある裏山へと避難することなく、50分近くも、河口へ続く川沿い近くの低地にある校庭に留まり続けた。やっと少し高い場所にある大橋のたもとに向けて動き出したところで、一気に堤防を越えて来た津波に遭遇した……といった内容がその後の報道によって明らかにされていた。そして、市教育委員会側の当時の説明や検証作業に納得できない一部の遺族との間ではいまだに軋轢が残り続け、説明会のたびに紛糾している。

 この大川小学校については、以前に筆者の誠ブログでご紹介した経緯もあるのだが(参照リンク)、実際に現地へ行って見て感じたことは、まず「とにかく遠い!」ということであった。

 先程、石巻市街から遠く…と書いたが生半可な遠さではない。何せ同じ石巻市内でありながら、緑の案内標識が掲げられたICから立派な三陸自動車道(無料区間)にいきなり乗る。そのまましばらく走り、国道に入ってからも雄大な北上川を横目に見ながら延々と走り続けた(GoogleMapで確認したら直線距離で石巻市から隣の隣の松島町まで位あるように見える)。

赤いポイントが大川小学校。同じ石巻市とはいっても、地図中央下部にある石巻市役所からは直線距離で8キロメートル以上ある(クリックすると全体を表示、出典:GoogleMaps)

 結局現地に着いたのは、石巻市中心部を出発して45分も経ってからだろうか。周りの景色が折り重なる低山と、北上川の大河に挟まれて雄大だったせいで、余計にはるばる遠くまできたという印象を与える。

 そして実はこの「遠さ」にこそ、後述するが地域の復興を幾分かは妨げている要因があるのではないか? とも筆者は考えたのだが、それはまた後で。

 大川小学校を最初に訪れた日は、晴れて夏の青い空が広がっていた。だからこそ余計に、明るい光の中にじっとうずくまるように灰色の影を落とす、かつて子供たちの楽しい校舎だったはずの建物跡の周りだけ、時が止まっているように見えた。

 以前は窓や壁の一部を喪失した校舎の中まで入っていけたらしいのだが、この訪問の時には、校舎全体と建てられたばかりの真新しい慰霊碑をぐるりと囲む形でロープが張られて、それ以上は近づけないようになっていた。とくに慰霊碑には学校の子どもたちばかりでなく、この地域で亡くなった住民の方々のお名前も刻まれている。報道も含め「カメラを向けないで」という注意書きには、この件の関係者達が敏感になっているらしい様子が垣間見えた。

 校舎の周囲を見て歩き始め、真っ先に目を奪われたのは、まるで巨人の掌でアメのようによじりながら同時に引きちぎられ、斜めに押し倒されたかのような、2階の渡り廊下だった部分の残骸である。植物の根にも似たむき出しのさびた鉄筋や、コンクリートの表面に走る無数のしわのような亀裂が、津波の強大なパワーを物語っているようで、こうして見ているだけでお腹の底から冷たい恐怖がこみ上げて来る。こんな力が、こんな重さが、この建物と周囲にあったはずの家々にあの日、押し寄せていたのかと思うと…。

 あの日、3.11の当日に比較的被害の少なかった関東にいた我々は、テレビやネットの映像を食い入るように見、その画像を通して「二次的に」大震災の被害を目の当たりにしていた。数日経って、現地の人々が自らの体験した現実をスマホのカメラなどで撮影した動画が投稿され始め、またたく間に共有され広がっていった。こうした無数の動画の中には、この大川小学校の付近を小高い山の上から見下ろす構図のものが、確かにあったと記憶している。「学校、だいじょうぶかぁ?!」と中年の男性が叫んで、カメラが向けられた先には、ごうごうと荒れ狂う濁流となって果てしなく押し寄せ続ける一面の水景色、を映し出す映像しかなかった……。かろうじて、校舎の屋根の一部だけが見えていたかもしれない。

 この大川小学校の校舎も、東日本大震災の被害を語り継ぐ「震災遺構」として保存処置し、永く後世に残すべきか、それとも地域の復興を優先して取り壊すべきか、議論の対象になっているという。

 確かに地域の人達が、この灰色の遺構に残る傷跡を眺める度に、あの日の哀しみや痛みを思い出してしまうから、早く撤去してほしい、というのも分かる気がする。しかし、と同時に思うのだ。「本当にそれでいいのだろうか? そんなに早急に決めてしまうべき問題なのか?」とも。

現地に立ってみて、初めて得られる確信

校舎の裏手に回って、周囲に広がる夏草に覆われた広大な更地を見渡してみた。かつてここには、人々の暮らしが息づく昔からの集落があったのだそうだ。今は、堤防拡張工事のための砂利山がある以外は、ほとんど何も無い。はるか向こうに見える小さい山の向こうは、海だ。

 今になって地形を見ると、分かることがある。集落にそって流れる大きな河と、反対側には急角度の藪山に挟まれて、小学校があった辺りからでは、やや高台になった橋の根元につながる大きな道路に出るしか外部への脱出路がないのだ。

 あの日、河口から一気に流れ込んだ津波が海岸に生えていた松林をなぎ倒し、土砂混じりのその倒木が橋の欄干に引っ掛かって遡上してくる波の激流をせき止め、橋の一部を破壊するとともに、勢いが向かった先の河岸の集落へとあふれ出して、地表にあるものを全て押し流したのだという(だから、同じ河岸でも、遡上した津波の「向き」によって被害の程度には雲泥の差がある)。現在のグーグルマップの写真を見ると、橋が落ちた部分の下にある河底には、くっきりと巨大な爪で引っ掻いたかのような、何かが数十メートルにも渡って引き摺られたような筋が上流側に向かって残っているのが、写真でもハッキリと分かる。遡上した津波が凄まじいパワーで橋脚を押し流した痕跡なのだろうか。

 これらは全て、筆者を案内してくれた地元在住の被災児童のご遺族と関係者が、iPadを使いながら教えてくれたことだ。彼らは異口同音にこう言っていた。

 「あの時、何があったのか、本当のことを知りたい。それだけなんだ。」