松井秀喜と巨人の「和解」、それは長嶋茂雄との師弟愛臼北信行のスポーツ裏ネタ通信(1/3 ページ)

» 2013年05月16日 08時00分 公開
[臼北信行,Business Media 誠]

著者プロフィール:臼北信行

日本のプロ野球や米メジャーリーグを中心としたスポーツ界の裏ネタ取材を得意とするライター。WBCや五輪、サッカーW杯など数々の国際大会での取材経験も豊富。


 多くの野球ファンが感動したはずだ。5月5日に東京ドームで行われた国民栄誉賞授与式で巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏が久々に古巣のグラウンドに帰ってきた。あの背番号55のYGユニホームを身にまとい、打席に立った同時受賞者の恩師、長嶋茂雄氏(巨人終身名誉監督)と投打で「対決」した始球式はプロ野球史に残る名シーンとして永遠に語り継がれるであろう。

 このイベントにはもう1つの知られざるドラマが隠されていた。松井氏と巨人が「和解」した歴史的な日となったのだ。国民栄誉賞授与式の直前に行われた自身の引退セレモニーで松井氏は「もう2度と、ここ(東京ドーム)に戻ることを許されないと思っていました」とスピーチした。これは同氏の紛れもない本音である。

 2002年のオフ、巨人からFA宣言でメジャーリーグへの移籍を決意した際に、当時の巨人球団幹部の1人から「一体誰のおかげで、ここまで来られたと思っているんだっ!」とののしられ、さらに「将来、また巨人でプレーしたい」と涙ながらに訴えたにも関わらず当時オーナーの渡辺恒雄会長には「戻りたいならば戻ればいい。ただし席があればな」と突き放された。

 巨人で永久欠番扱いとなっていた背番号55も2008年のドラフト1位入団、大田泰示が背負うことになると松井氏は「かえってスッキリした」と一言吐き捨て、巨人関係者の誰もが「これで松井とウチの関係は完全に終わった」と思っていた。

「清武の乱」で風向きが変わった

 ところが、2011年11月に前球団代表の清武英利氏が解任されてから、ほんの少しずつ雲行きが変わり始めた。「清武氏は『名前だけの補強はもうしない』とチーム内での選手育成に重点を置き、大田に55番を与えることを独断で決めるなど球団内で松井復帰を唱える声を根絶させた『反松井派』の張本人。この時代には清武氏より格下の人間が『松井』の名前を出すことすらタブーとされていたほどです。なにせ『清武さんがいる限り、ゴジ(松井氏)はウチの敷居すらまたぐことは許されないだろう』と口をそろえていたぐらいですから……」(球団関係者)

 その清武氏が球団を去ると、球団内では「松井復帰待望論」が再浮上。清武氏に代わって新たに就任した原沢敦代表が2012年7月、レイズを解雇された松井氏について「どうなるかというのは気にしている」と語ったのも雪解けムードを感じさせた。

 しかし肝心の松井氏が巨人に対する疑念を拭い去ることができておらず「シコリ」は残ったまま。その除去に一役買っていたのが何を隠そう長嶋氏であった。

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