コラム
» 2013年02月08日 08時02分 UPDATE

杉山淳一の時事日想:廃止路線を復活させたことで、どんなことを学んだのか (2/4)

[杉山淳一,Business Media 誠]

せめて河戸までは残して

 一方、可部駅以南は住宅開発が進み、将来的に収支改善が見込まれるとして存続した。電化もされていたから、相応の投資も行われたことになる。途中の大町駅では新交通アストラムラインとも接続していた。つまり、可部線は可部駅を境に命運が別れた。北側の非電化区間は“トカゲのしっぽ切り”が行われた格好だ。

yd_sugiyama4.jpgyd_sugiyama5.jpg 可部以南は通勤需要があり電化されていた

 今回復活で合意した区間は、可部駅の北側へ1.6キロメートルの距離である。短い区間とはいえ、JR路線の廃止区間の復活は初めて。可部駅の隣だった旧河戸駅より300メートル先に新しい終着駅を作り、中間にも駅をひとつ新設する。可部線廃止の際に、沿線住民から「せめてひと駅先の河戸までは残してほしい」と懇願されていた地域である。廃止から10年、その願いがようやく実った。

 もともと可部線は日本海側の浜田と広島を結ぶ「陰陽連絡線」として構想された路線だ。軽便鉄道として横川―可部間が開業し、広浜鉄道が浜田への免許を持っていた。この路線を国有化し、可部から北への延伸が行われた。三段峡から北は今福線として1974年に着工されたものの、国鉄の赤字が問題となり1980年に工事は凍結した。つまり、可部線は本来の「広島―浜田間を結ぶ」という使命を果たせぬままローカル線と化し、赤字を膨らませていった。そこでJR西日本は1998年に末端の非電化区間、可部―三段峡の廃止を表明する。

 この時、沿線の人々からは反対運動と「乗って残そう」運動が繰り広げられた。可部線に関しては国鉄時代から廃止論議があり、その都度、沿線自治体が反対運動を実施してきた経緯もある。ただし、今回は少し事情が違った。宅地開発が進み、その範囲は可部駅のひとつ先の河戸駅まで達していた。そこで河戸駅付近の人々と自治体を中心に「可部駅・河戸駅間電化促進期成同盟会」が設立され、JR西日本に対して請願を行っていた。つまり、三段峡までは無理でも、せめて河戸駅までは電化し、残してほしいというメッセージだ。

yd_sugiyama6.jpg 運行本数も少なく経費もかさむ非電化区間は廃止

 ところが、2000年に鉄道事業法が改正され、鉄道事業の開始や廃止が許可制ではなく届出制に変わった。するとさっそくJR西日本は可部以北の廃止に着手。2003年に廃止してしまう。河戸駅周辺の人口増や可部―河戸間の需要への考慮もなく、「電化区間と非電化区間の境目」というだけで可部以北を廃止したわけだ。

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