マンガ・アニメの“神様”――手塚治虫はどのようにして生まれたのかアニメビジネスの今(3/5 ページ)

» 2013年01月22日 08時00分 公開
[増田弘道,Business Media 誠]

漫画以外からも大きな影響を受ける

 戦前の子どもにとって、漫画と並んでポピュラーなメディアであったのが紙芝居だ。その魅力は何といってもその経済性にあり、自分の小遣いで見られるほとんど唯一のメディアであった。

 また、手塚は漫画だけではなく、活字からも大きな影響を受けている。古典文学を始めとしたありとあらゆるジャンルの本を片っ端から読んでいた様子がうかがえるが、手塚が読書に熱中し始めたころ、「円タク」にちなんだ、定価1円の「円本」ブームによって、国内外のあらゆる名作が安価に入手できるようになった時代。

 1926年の『現代日本文学全集』をきっかけに、刊行シリーズ数200とも300ともいわれる円本ブームが巻き起こり、手塚家にも新潮社の『世界文学全集』やアルス出版の『日本児童文庫』が揃えられ、通っていた小学校にも『小学生全集』があるといった環境の中で、手塚は幼少期から古今東西の名作に触れらたのである。

主な「円本」シリーズ(筆者調べ)

『現代日本文学全集』(改造社)、『経済学全集』(改造社)、『マルクス・エンゲルス全集』(改造社)、『世界文学全集』(新潮社)、『明治大正文学全集』(春陽堂)、『日本戯曲全集』(春陽堂)、『近代劇全集』(第一書房)、『大思想エンサイクロペーヂァ』(春秋社)、『小学生全集』(興文社)、『日本児童文庫』(アルス出版)、『日本地理風俗体系』(成文堂新光社)、『ゲーテ全集』(大村書店)、『千夜一夜物語』(中央公論社)、『赤彦全集』(岩波書店)、『漱石全集』(岩波書店)、『現代政治学全集』(日本評論社)、『怪奇探偵ルパン全集』(平凡社)、『映画スター全集』(平凡社)、『少年冒険小説全集』(平凡社)、『伊藤痴遊全集』(平凡社)。


 手塚は映画もよく見ていた。戦前の映画は、現在のテレビと映画をあわせたようなスーパーメディア。手塚は『狸御殿』やエノケンの『西遊記』『猿飛佐助』『虎の尾を踏む男達』『法界坊』など日本の娯楽映画に親しむと同時に、その家庭環境から洋画にも触れていた。

 手塚は1985年に『キネマ旬報』の要望に応じて、「日本映画史上ベストテン」と「外国映画史上ベストテン」を挙げている。日本映画が全て戦後の映画であるのに対し、洋画は少年時代に見たと思われる作品が3作品ある。手塚の少年時代は「邦画より洋画を見る層の知的レベルが上」というのが一般的で、この趣向を見ても分かるように手塚家は“インテリを中心とする洋画族”であったことがうかがえる。

手塚治虫が選んだ外国映画史上ベストテン(『キネマ旬報』1985年1月上旬号より)

順位 タイトル 公開年
1 『ナポレオン』 不明
2 『2001年宇宙の旅』 1968年
3 『駅馬車』 1940年
4 『天井桟敷の人々』 1952年
5 『第三の男』 1952年
6 『街の灯』 1934年
7 『自転車泥棒』 1950年
8 『戦艦ポチョムキン』 1967年
9 『舞踏会の手帖』 1938年
10 『白雪姫』 1950年

 しかし、治虫少年が見ていたのは名作ばかりではないだろう。「結局、子どもが興味を持つのは、〈アクションと特撮とアニメ〉である」(『一少年の観た〈聖戦〉』より)というように、やはり胸ときめくのはそういった類の娯楽作品であったのではないか。

 運動が苦手だった手塚はアクション映画には興味は向かわなかったようだが、特撮を駆使したSFや冒険映画、アニメには大いにひかれるものがあった。当然、次表にある映画の何本かは夢中で観ていたはずである。オタクの原点にはSFがあるが、戦前からその種の映画を見ていた手塚はある意味オタクの元祖とも言えるではないかと思う。

手塚の少年時代に日本で公開された主なSF・特撮映画と公開年(筆者調べ)

『ロスト・ワールド』(1925年)、『怪獣征服』(1928年)、『メトロポリス』(1929年)、『1940年』(1930年)、『月世界の女』『五十年後の世界』『奇蹟人間』(1931年)、『フランケンシュタイン』『吸血鬼』『ジキル博士とハイド氏』『魔人ドラキュラ』(1932年)、『獣人島』『キング・コング』(1933年)、『コングの復讐』『透明人間』『トンネル』『殺人鬼と光線』『空の殺人光線』(1934年)、『F・P一号応答なし』(1935年)、『五百年後の世界』『幽霊西へ行く』『透明光線』『来るべき世界』『巨人ゴーレム』『超人対火星人』(1936年)、『海底下の科学戦』『失はれた地平線』(1937年)、『東京要塞』(1938年)、『火星地球を攻撃する』(1939年)、『フランケンシュタインの復活』『エノケンの孫悟空』(1940年)、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)


 もちろん手塚はアニメも大好きだった。テレビでアニメが毎日放映されていたわけではない昭和初期の子どもにとって、アニメを見る喜びは今より数段強かったはずだ。親に連れられて行く映画館でアニメが上映されるほんの数分間を楽しみに、子どもたちは生活を送っていた。

 そんな子どもたちの間で圧倒的な人気を誇っていたのは『ミッキーマウス』『ポパイ』『ベティ・ブープ』といった米国製アニメ。日本製アニメもあったものの、「日本の動画の歴史は、一般映画と比べてほとんど、お話にならないくらいみじめなものであった。そして作品にしても幼稚で、観て赤面するようなものが多かった」(『私の人生劇場』より)という。

 しかし、日本製アニメも普及するようになる。日本が太平洋戦争に突入したころ、日本のアニメの父と呼ばれる政岡憲三と並ぶクリエーターだった瀬尾光世は、海軍省から漫画映画製作の発注を受け、所属する芸術映画社で日本初の長編アニメ『桃太郎の海鷲』を監督し大ヒットさせた。その後、瀬尾が松竹に入社して手がけたのが海軍省委託作品の大作『桃太郎・海の神兵』だ。実は、瀬尾は日本軍がシンガポールから持ち帰ったディズニーの『ファンタジア』『白雪姫』を参考に、ハイクオリティの作品作りを成功させたのである。

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 医学生であった手塚は1945年、『桃太郎・海の神兵』と運命的な出会いを果たしアニメ作りを決心する。ちなみに、手塚は幼いころから自宅で父親が購入した映写機で米国の短編喜劇やチャップリンの作品、ミッキーマウスの漫画映画を繰り返し見ていた。その当時、映写機を個人で持っていることは極めてまれで、その意味でも破格の環境にあったのは確かだろう。

物語文化の水準の高さの秘密は識字率の高さ

 ここまで見てきたように手塚は漫画、紙芝居、小説、映画といったメディアからさまざまなものを吸収して育ってきた。そして、父の蔵書に落語全集などがあったことから、日本の伝統・大衆芸能にも日常的に触れていたことも想像に難くない。

 日本ではすでに平安時代に『源氏物語』という世界文学史上の金字塔となる作品が存在し、世界最先端の文化レベルを誇っていた。トロイの遺跡を発見したシュリーマンは、世界周遊の折に幕末の日本を訪れ、「日本の教育はヨーロッパの文明国家以上に行き渡っている」と述べているように、その根底には識字率の高さがあった。ラジオやテレビのない時代、江戸時代に男女ともに80〜90%に達していたという識字率が、「浄瑠璃」「歌舞伎」「講談」「落語」「浪曲」といった実演メディアや、「浮世草子」「草双紙」「洒落本」「滑稽本」「人情本」「読本」「咄本」といった物語文化を支えたのである。落語家から落語のプロになることも勧められた手塚だが、このような日本の物語文化が意識の深層に染み込んでいたものと思われる。

 芸能ということでは、宝塚のスターと一緒に写真に収まってもいる手塚の幼年時代を見るまでもなく、手塚と演劇の関係性における原点は多くの人間が指摘しているように宝塚歌劇にある。さまざまなところで語られていることでもあるが、手塚が大学で学生演劇をやっていたことを考えると、もし絵が描けなかったなら、この方面に進んだ可能性も高かったように思える。

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