マンガ・アニメの“神様”――手塚治虫はどのようにして生まれたのかアニメビジネスの今(2/5 ページ)

» 2013年01月22日 08時00分 公開
[増田弘道,Business Media 誠]

手塚を囲む文化環境

 戦前の漫画文化だが、前述したように1931年に『のらくろ』が『少年倶楽部』に連載されて大ヒット、空前のマンガブームが巻き起こっていた。「1920年代から1930年代にかけてのざっと15年間は、日本の子供まんがの成長期から最盛期」(『誕生!手塚治虫』より)で、手塚いわく「見ようと思えば本当に身の回りはマンガだらけ」(『漫画の奥義』より)という状況である。

 さらに、「意外なように思われるかもしれないが、昭和戦前期の子供漫画の質の高さは、日本漫画史の中でも特筆すべきものがあり、再評価に値する」(『漫画の歴史』より)ほどクオリティも高く、子どもにとって質量ともに恵まれた漫画読書環境にあった。

大人向け漫画

 戦前の大人向けの漫画といえば、現代につながるコマ割り漫画の祖とされる北澤楽天や、ストーリーマンガの祖とされる岡本一平の系譜に連なる風刺の効いた大人向けモダニズム漫画を指すことが多い。これらの漫画は明治後期に北澤楽天が創刊した雑誌『東京パック』を舞台に、社会風刺の表現を完成させていった。両巨匠は漫画のルーツとも言えるが、当時の漫画家としては珍しく全集が刊行されており、手塚は父が購入したそれらの全集を幼少のころから読んでた。

 両巨匠が先鞭を付けた大人向けマンガは、それまでの反体制的漫画とは一線を画すプロ意識を持った近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄が集う“新漫画家集団”に引き継がれる。漫画は余技、もしくは単なる生活手段だった時代に、明確な職業意識を持った新漫画家集団が誕生することで、手塚がマンガ家となる道がひらかれたのである。

新聞漫画

 20世紀初頭、米国では新聞の拡販競争の手段としてコミック・ストリップ(新聞漫画)が活用され、大人から子どもまで絶大な人気を博するに至った。いち早くその状況を知った北澤楽天は1921年、時事新報に日曜版漫画付録『時事漫画』をつけることに成功、その後、日本でも新聞漫画が一般的になっていく。

 中でもエポックメイキングだったのは、1936年から朝日新聞に掲載された横山隆一の『フクちゃん』だろう。実写映画化、アニメ化された上、早稲田大学のマスコットになったことでも分かるように、『のらくろ』に次いで登場した国民的なキャラクターとなった。もちろん手塚も大ファンで、小学校への通学電車のくもった窓ガラス一面にフクちゃんそっくりの似顔絵を描き級友を驚かせたという。

『フクちゃん』

 当時の子どもたちの間で人気が高かったのは田川水泡の漫画『小型の大将』が連載されていた『大毎小学生新聞』(現在の「毎日小学生新聞」)だが、読み物も充実しており、手塚が多大な影響を受けた海野十三の小説『火星兵団』も連載されていた。このほかにも『読売サンデー漫画』(後に『よみうり少年新聞』)には宍戸左行の『スピード太郎』が連載され、その映画的手法によるスピード感あふれるコマ割は手塚に大きな影響を与えたとされている。

雑誌掲載漫画

 戦前の子どもたちに大きな文化的影響を与えたのは『幼年倶楽部』『少年倶楽部』『少女クラブ』など講談社の雑誌である。3誌の合計販売数は200万部にも達し、それら以外の子ども雑誌はなきに等しい感があった。これらの雑誌のメインは吉川英治、山中峰太郎、佐藤紅禄といった作家による啓蒙、冒険小説だったが、もちろん子どもが大好きなマンガも載っていた。

 手塚家では『幼年倶楽部』から定期購読していたようだが、治虫少年が夢中になったのは小学校から読み始めた『少年倶楽部』だった。島田啓三の『冒険ダン吉』や、坂本牙城の『タンクタンクロー』などの人気連載漫画がある中、最もとりことなったのはやはり田川水泡の『のらくろ』であった。

単行本漫画

 講談社は雑誌だけでなく、単行本漫画においてもリーダーだった。『少年倶楽部』に連載された『のらくろ上等兵』は1932年、講談社から単行本として上梓され、13万4000部という漫画出版始まって以来の大ヒットとなった。価格は1冊1円、現在なら2000円ほどになる箱入りハードカバー上製本『のらくろ』シリーズや同じ講談社の『冒険ダン吉』なども、手塚少年は親から買い与えられていた。

 講談社の対抗軸として健闘したのが中村書店だ。「昭和戦前期の子供漫画の名作、ヒット作最も多く送り出したのは、講談社と中村書店のふたつの出版社である」(『漫画の歴史』より)とあるように、中村書店が発刊していた「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」には大城のぼるの『チン太二等兵』『火星探検』など多くの名作があった。手塚はこのシリーズもほとんど買い与えられており、当時の子どもの中でも最も恵まれた漫画読書環境にあったのは間違いない。

海外漫画

 昭和初期にはすでに、米国で人気だったウィンザー・マッケイの『夢の国のニモ』が日本の新聞に転載されていた。その種の海外漫画の中でも、手塚が読んでいた『アサヒグラフ』連載の『ジグスとマギー 親爺教育』(ジョージ・マクナス作)は1930年に松竹歌劇団で舞台化されたほどの人気だった。手塚はさらに革新的スタイルの雑誌『新青年』に掲載されていたミルト・グロスの『突喚居士』なども読んでいたというから、非常にませたマンガ少年であったことは間違いない。

 このように戦前の子どもたちは豊かな漫画環境に置かれており、手塚の「見ようと思えば本当に身の回りはマンガだらけ」という言葉もうなずけるだろう。経済的に恵まれた環境にあった手塚は「ぼくのマンガには、昭和の初めから一種のマンガ史の影響が全部あるんですよ。手塚マンガは昭和のマンガ史のカルチャライズしたものといってもいいと思いますね」(『漫画の奥義』より)と語っているように、昭和初期の漫画文化を余すことなく取り込んでいるのである。

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