マンガ・アニメの“神様”――手塚治虫はどのようにして生まれたのかアニメビジネスの今(1/5 ページ)

» 2013年01月22日 08時00分 公開
[増田弘道,Business Media 誠]

アニメビジネスの今

今や老若男女を問わず、愛されるようになったアニメーション。「日本のアニメーションは世界にも受け入れられている」と言われることもあるが、ビジネスとして健全な成功を収められている作品は決して多くない。この連載では現在のアニメビジネスについてデータをもとに分析し、持続可能なあるべき姿を探っていく。


 50年前にテレビアニメをスタートさせ、日本のアニメ産業を興隆させた手塚治虫。「マンガの神様」「アニメの神様」とも称される手塚は、コンテンツビジネスを語る上で欠かせない存在である。

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 これほどまでに稀有な人材は、どのようにして生まれたのだろうか。今回は手塚が習作に至るまでに大きな影響を受けたと思われる環境を、「時代・社会」「文化」「地域」「家庭」の4つに分けて探ってみたい。今後の人材育成を考えたり、中国など他国で同様の人材が生まれる可能性を検討したりする上で、参考になるのではないだろうか。

手塚の背景にあった時代・社会

 1928年生まれの手塚治虫が少年時代を送ったのはいわゆる“戦前”だが、それに対する一般的なイメージは「暗い」というものだろう。ところが、どうも我々が暗くて貧しかったと思っている戦前のイメージは、太平洋戦争に向けて本格的な軍事態勢に入った1937年以降から敗戦までのことであるようだ。実際、経済的にも1935年前後は戦後の10年間よりは豊かであった。

 手塚を育んだ昭和初期はどのような時代であったのか。次表は手塚が物心ついたと思われる1931年前後からの世相・風俗だが、「アホかいな」と突っ込みを入れたくなるような事件もあり、庶民の目線で見ると結構明るい時代だった。

手塚治虫の少年時代の世相・風俗(『昭和・平成家庭史年表』をもとに筆者作成)

出来事
1931年 田川水泡が『少年倶楽部』で『のらくろ』の連載を開始し38万部という創刊号以来の記録を打ち立てる。
1932年 株式市場が1928年以来の高値となる。
東京目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催され、ワカタカが初のダービー馬に輝く。賞金1万円(現在の価値で2000万円)。
1933年 『のらくろ』のお面が売り出され、3〜4カ月で500万枚が売れた。その他のキャラクター商品も大ブーム。
手塚治虫がこよなく愛した中村書店「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」の1冊目、大城のぼる『愉快な探検隊』が発刊。
アメリカンヨーヨーが1個10銭で500万個生産する大ブームとなる。
1934年 東京市内の遊技場、第1位はビリヤード場1786軒、第2位マージャン屋1249軒。警視庁、カフェ・キャバレーへの学生・生徒・未成年の出入りを禁ずる。ただし「制服を着ぬ客はこの限りに非ず」という抜け道もあった。
東京・等々力のゴルフ練習場に投光設備、500ワット投光器が20台設置(ゴルフブームが始まっていた)
1935年 東京帝大生の趣味、映画1600人、音楽1400人、囲碁・将棋1300人、玉突き260人、マージャン2120人。
女学生の間に、「君、僕、失敬、何言ってやがるんだい」などの男言葉が流行。
1936年 日劇ダンシングチーム「日劇・秋のおどり」初公演。大ヒットし、以後三大おどりの1つとなる。
パチンコブーム。高知市では半年で35軒のパチンコ屋が開業。
1937年 浅草六区、第一次世界大戦以来の好景気。1日平均30万人が押し寄せる。その浅草に定員3993人と東洋一のキャパシティを誇る国際劇場がオープン。松竹少女歌劇(SKD)の『東京踊り』で開幕。
国鉄、おとぎ列車の「ミッキーマウストレイン」を走らせる。
1938年 銀座三丁目にホットドッグのスタンドが登場。洋風に飾り立てた屋台が珍しかったこともあり、新しもの好き銀座マンたちの人気を呼び名物となった(マクドナルドが1971年に出店した日本1号店も銀座)

 「戦前には文化や娯楽などなかった」と思っている人も多いのではないだろうか。しかし、このように意外と豊かであった。手塚が生前、トキワ荘を中心とする弟子たちに、ことあるごとに「良い映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の本を読め、一流の芝居を見ろ」と勧めていたが、物心付いたころから豊かな文化環境に育ったからこそ言える言葉だったのだろう。

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