仕事とは“望むべきことを彫刻していく営み”(2/2 ページ)

» 2013年01月18日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
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 私自身、最初メーカーに就職し、次に出版社に転職をした。メーカーにいるころは、ヒット商品を出すことに熱中し仕事に励んだ。出版社に移ってからは、良い記事を書き、良い雑誌を作ることに専念した。多忙でストレスもあり、きつい仕事でもあったが、面白がれる仕事をして給料がもらえるなら幸せなことだといつも思っていた。

 ただ、20代から30代半ばまでは、自分が望むべきこと、つまり夢や志、働く大きな意味のようなものはなかなか見つけられなかった。いろいろ見えてき始めたのは30代の終わりころ。いくつかの出来事が重なり、「自分が望むべき道は教育の分野である」との内側からの声がしっかり聞こえてきた(それは今振り返ると、必然の出来事だったように思う)。

 2番目の意識に立つ人にとって、働くことは、いわば「自分が何を望むべきか」を“彫刻する営み”となってくる。日々の大小の仕事は一刀一刀彫っていく作業である。最初は自分でも何を彫っているのかは分からない。しかし、5年10年と経っていくうちに、徐々に自分の彫るべきものが見えてくる。途中まで何となくAを彫っていたつもりだったが、途中からBに変えたということが起こってもいい。

 ミケランジェロは、石の塊を前に、最初から彫るべきものの姿を完全に頭に描いたわけではない。一刀一刀を石に入れながら、イメージを探していくのだ。彫ろうとするものを知るには、彫り続けねばならない。そして彫りあがってみて、結果的に「ああ、自分が彫りたかったものはこれだったのか」と確かめることができる。

 研修でのディスカッションを聞いていて気付くことは、今の仕事がつまらない、やらされ感がある、労役的であると思っている人は、1番目の「仕事観X」に傾く。仕事は我慢であり、ストレスであり、その憂さ晴らしにせめて何かいいものを買いたい、何か楽しい余暇を過ごしたい。そのためにはお金が要る。そういった心理回路だ。人生の喜びの見出し先は働くことにはなく、お金を交換して得られる物や余暇に向いている。

 逆に、仕事自体が面白い、仕事を通して何か社会に貢献していきたいというような想いを持っている人は、2番目の「仕事観Y」に近さを感じる。もちろん若い社員たちは十分に高い年収を得ているわけではないから、経済的に裕福とは言えない。ローンや子どもを抱えていればなおさらだ。しかし、そんな中でも、仕事観Yを強く抱いている人は意外に多い。ただ、自分の「望むべきこと」(=夢や志、意味的なもの)がすぐに見えてこないことに焦りや不安を感じるのだ。仕事観Xのもとでは、お金さえ用意すれば、望む物と即座に交換でき満足が得られることとは対照的である。

 「仕事観X」と「仕事観Y」とを比べて、どちらが良い悪いということではない。誰しもこの両方を持ち合わせている。その強さの割合が個人によって異なり、人生の時々の状況によって変化するだけだ。ただ、働く意識の成熟化という観点で言えば、仕事観Xから仕事観Yに移行するのが成熟化の流れなのだろう。エイブラハム・マズローの概念を借りれば、「生存欲求」から「自己実現欲求」への移行だ。

 平成ニッポンの世に生まれ合わせた私たちにとって、仕事観Xにどっぷり浸かって生涯を終えるのは何とも残念だと思う。仕事観Yのもと、自分の望むことが何かを彫刻していく喜びをしっかりと味わいたいものだ。ただし、喜びとはいえ、それは真剣な戦いでもある。(村山昇)

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