社長はなぜ偉いのか(1/2 ページ)

» 2012年12月26日 08時00分 公開
[純丘曜彰,INSIGHT NOW!]
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著者プロフィール:純丘曜彰(すみおか・てるあき)

大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科哲学教授。玉川大学文学部講師、東海大学総合経営学部准教授、ドイツ・グーテンベルク(マインツ)大学メディア学部客員教授を経て、現職に至る。専門は、芸術論、感性論、コンテンツビジネス論。みずからも小説、作曲、デザインなどの創作を手がける。


 社長が来れば、頭を下げる。でも、なぜ? 社長だから。誰が社長であっても、社長ならば従業員はみんなそうする。では、社長になる人は偉いのか。それは、分からない。将棋のコマを見てみろ。全部、同じ木でできている。王将と書いてあるコマだけ、特別の材質でできているわけではない。桂馬や歩と同じだ。

 とはいえ、「みんな同じだ」などと、従業員が頭に乗ってはいけない。この将棋盤の上にいる以上、王将が大事。そういうゲームだから。ゲームを否定すれば、そこから放り出される。そうでなくても、歩から桂馬、飛車角と、王将の都合によって捨てられる順番もある。下っ端のくせに社長をあなどるなどという身のほど知らずは、危ない、危ない。

 しかし、それは社長も同じこと。恐らく第一派閥のトップであることによって、社長になったのだろう。つまり、第一派閥が51%以上の支持を得て、その第一派閥の中で51%以上の支配を持っている。これは、0.51x0.51で、社内全体では実は26%に過ぎない。第一派閥出の社長なんだから、ということで、最低最悪でも、社長という肩書自体が26%の基礎支持率を持っている。これにいかに上乗せできるかが、その本人自身の実質的な支持率ということになる。

 逆に、26%を少しでも割り込んだら、いくら肩書が社長でも、「あいつだけは気にくわない」「許せない」という、その人物個人に対する強烈な反発が渦巻いている、ということだ。こうなると、もはやその将棋盤そのものに新規に人が集まらなくなる。それどころか、徐々にぽろぽろと人が逃げ出す。

 ここで往々にして社長の方がぶち切れて、自分に露骨に反発している連中を見せしめとばかりに叩き出すが、これはまずい。紛糾が内外に知れて、いよいよ将棋盤が不安定になる。そして、しまいにはほかの将棋盤に根底からひっくり返される。ひっくり返った将棋盤など、すでにゲームの体をなしていない。誰が王将に頭を下げるものか。それどころか、将棋盤ごとひっくり返ったせいで落っことされたほかのコマに刺し殺されても文句も言えまい。

 神輿が上がるのは、担ぐ者たちがいてこそ。それもガチンコのぶつかり合いで数が勝負とあれば、一人でも多い方がいいに決まっている。そして、さらにどれだけ新規に有能なコマを多く集められるかこそが、今後の趨勢を決する。

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