明日は学校。榊は会社。
夜、いつも通りに榊を抱きしめて目を閉じた。
大変な日曜日だった。ボヤ騒ぎがあって、榊が無事で、素敵で、家事を全部やってくれて、お魚が両面焼けるガスコンロを買いに行って、デジカメ買ってもらって、ホームレスのおじさんのところに行って古市さんがいて。
……でも、なにか忘れている気がする。
なにか、とても大切なことを。私が楽しみに思っていたこと。
そんなことを思っていたら、眠ってしまった。
その夜、榊の夢が私に流れ込んだ。
時折ある。榊の能力のひとつの表れなのだろう。正確に言うと、夢というよりも記憶の再生が流れ込むことが多い。
夢の中で、私は榊の視点になる。
場所は、ホームレスのおじさんたちの青いテント。
どこかから引いてきている薄暗い電燈の中で、私が「行ってきます」と言って買い出しに出るところだった。榊の視線が私を追っていた。
「ゆきかぜちゃん、大きくなったなぁ」
古市さんが少し酔っぱらって陽気に言った。
不思議な視界だった。テントの光景と同時に、さっきテントを出るときからの私の後ろ姿も見え続けている。二つの光景が。
ぼそりと、トクさんの声がした。
「榊、天眼通か」
榊の視界の中で古市さんの表情が変わった。私は靖国通りに出て、客引きのお兄さんたちをかき分けてコンビニに向かっている最中。
古市さんが言った。
「天眼通、……千里眼だね。榊君、なにを見ている」
「ゆきかぜです。危ない目に合わないように」
榊はそう言うと、トクさんの声がした。
「榊。お前は、そうして自分の命をすり減らしていく。務めだ」
気づけばその周囲のホームレスのみんなはしんとして、その直前までの楽しい雰囲気は消え、なにか統率のとれた集団になっていた。
榊の視線が動いた。トクさんの顔が見える。
ひげだらけの、お世辞にも清潔とはいえないけど、私の好きな、くしゃっと笑うおじさんの顔。だが、榊の視線から見たトクさんの顔は子どもにも、青年のようにも、老人にも見えて、でもみな、同じ目をしていた。それは全部、トクさんだ。すべての顔が重なり、同時に口を動かして言った。
「あの子だけではないが、世界でも何人というレベルの子だからね。でも、僕はこの世すら、もう終わらせてよいのではないかと思っている」
ホームレスのみんなが、同時に、うん、と小さくうなづいた。まるで一つの命を持つ生き物のように。
私はコンビニであれこれ選んでいた。うきうきと、喜んでもらえるかなとか思いながら。同時に重なるのは、トクさんと、ホームレスのみんな。視界の端の古市さん。
古市さんは、顔は赤いけど真面目な表情で、絞り出すような、強い声で言った。
「ですが! 二階堂先生、……いや、トクさん、今も、『吉野』や、バチカンや、あちこちで護持している者たちの」
「古市君。君は優秀な教え子だったが、勝田さんの影響をずいぶん受けたようだな」
古市さんは黙った。ぎゅっと目を閉じた。
それは私の知っている飄々とした、元エスパー研所長で有名大学の人気教授な古市さんとはまったく違う様子だった。
その時トクさんは、榊の視界の中で青年の顔に固定されていた。不思議な光景だった。あの古市さんに先生と呼ばれるトクさんと、一つの命になったようなホームレスのみんな。同時に榊の視界には、コンビニ袋を両手にもって元気に夜の繁華街を帰ってくる私が見える。
榊が言った。
「ゆきかぜが、そろそろ帰ってきます。無事です」
トクさんが、うん、とうなづいていった。
「古市君。……僕らは、『抜け吉野』だ。榊も。勝田さんは立派な人だったと思う。だが、私たちのことは誤解していた気がする」
古市さんは、勝田さん、という名前が出て目を開けた。そして、トクさんをまっすぐみた。何か言いたそうだった。
榊が、二人を見て言った。
「ゆきかぜが、来ます。あと数分です」
私は、風俗街の真ん中を歩いていた。この方が近道だ。お店の子に見えるのか、声もかけられない。早くみんなのところに帰って買い出しをほめてもらいたい気持ちでいっぱいの姿。
トクさんが、うん、とうなづいた。
そして皆を見回して、古市さんと、榊を見た後、言った。
「ゆきかぜくんの母親役は、正直な女だった。だから、耐えられなかったのだと思う。……榊よ」
「はい」
「お前は、なすべきことをしている。これからもあの子を護れ。そしてお前が死ぬときには」
「はい。ゆきかぜも、殺します」
「頼む」
ざっ、とホームレスのみんなが礼をするようにうつむいた。
しばらくして榊の視界の中の私はテントに帰り、視界が一つになった。
出る前と同じ宴会で、私はご苦労様とほめてもらった。うれしかった。
……でも、今、夢を見ている私はものを考えることもできずにいる。
え? なにこれ?
榊が私を守るって、殺すって?
古市さん、トクさん、みんな、吉野とかバチカンって。
それと、私の、お母さん。
それに、私、今日、……榊に喜んでほしかった!
でも、そこでばちん、と意識が落ちた。夢でも、眠りでもなく、なにかが止まった。
頑張ったのに。マーマレード、喜んでほしかった。コーヒー豆、どきどきして選んだ。子どものころのこと。他にもいろいろ、いろんなこと。一気に思い出して、でも、すぐに全部は意識の奥底の、さらに下に隠されてしまった。
そして、また私は全部を忘れた。
私はまた、なにも分からない久保田ゆきかぜになった。
朝になった。
私は普通に榊と家を出た。いつも通りの一日が始まった。
キョンちゃんと途中で待ち合わせて学校に行った。
全部を思い出すのは、もっと先。後悔する時間の始まり。
あの文化祭のことも、いろんなことを、懐かしく思い出すころのことになる。
→受賞作の「不完全エスパー―積極的傾聴と文化祭―」へ
「不完全エスパー―ゆきかぜの日曜日―」は、第1回誠 ビジネスショートショート大賞で清田いちる&渡辺聡賞を受賞した「不完全エスパー―積極的傾聴と文化祭―」の続編として書かれた作品。賞品の一部として、Business Media 誠に掲載することになりました。受賞作品を決定した最終審査会の様子はこちらの記事でお読みいただけます。
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