「不完全エスパー―ゆきかぜの日曜日―」は、第1回誠 ビジネスショートショート大賞で清田いちる&渡辺聡賞を受賞した「不完全エスパー―積極的傾聴と文化祭―」の続編として書かれた作品。賞品の一部として、Business Media 誠に掲載することになりました。受賞作品を決定した最終審査会の様子はこちらの記事でお読みいただけます。
私はその日曜日、いつもより早く起きた。
楽しみで楽しみで、どきどきして眠れなかった。朝が待ち通しかった。
今日は私たちの大事な記念日。榊を絶対に喜ばせてあげるんだ。
私はまだ眠っている榊を抱きしめていた腕を静かに抜いて、いつもならすぐ自分の部屋で着替えてしまうのだけど、今日はなんだか待ちきれずにパジャマのままお台所に向かった。
この日の用意はずっと前からしてあった。
今日は私たち二人の誕生日。 正確には、そう戸籍に記載してある日。私と榊が出会った日のはずだから。亡くなった私たちの後見人、マヤ株式会社の会長だった勝田おじいちゃんはそう言っていた。
本当の誕生日なんて分からない。でも、そんなのどうでもいい。
いつもは、その日の中でさらっと榊を喜ばせるようにしている。特別にやりすぎるのはなんだか恥ずかしい。でも、今年の今日は日曜日。榊にもう少しだけ、いっぱい喜んでほしい。
榊の好きなものを、たくさん用意したんだ。
手作りのオレンジマーマレード。昔、小学生の私にマヤのお姉さんが作り方を教えてくれた。皮の内側の白い綿をとりすぎず煮るのがコツ。お姉さんは「人ってすごいよね。苦い皮もこんなおいしくしちゃうんだもの」と言っていた。途切れ途切れの記憶の中でも、それを榊がおいしいといってくれた時のことを思い出すといつでも気持ちがふわっとする。
完全無農薬のオレンジは手に入りにくい。この日のためにあちこち探して、何週間も前、榊の外出中に作って冷蔵庫の奥にしまっておいた。
瓶に入れて、さらに紙でくるんで中身を隠して『開けたら殺します ゆきかぜ』と書いておいた。榊好みの甘さ控えめ。きっと喜んでくれる。
そして榊の好きなコーヒー豆、トアルコ・トラジャ。前、新宿のデパ地下で榊がこの豆を買ったことがある。同じお店で買って私の部屋に隠しておいた。
あと、本当は私が焼きたかったのだけど、まだ自信がないから買ってきたパン。有名なパン屋さんで、一番高い食パンにした。
高校生の私には厳しい出費だ。でも榊が喜んでくれるなら。私の人生は、榊のためにある。
うきうきした気持ちで冷蔵庫からマーマレードの瓶を出した。包み紙を取ると鮮やかなオレンジ色。私の気持ちの何かをぐらっとさせるくらい綺麗。
ケトルにたっぷりお水を入れてガスコンロにかけた。マーマレードは冷たくない方がおいしいから、少しコンロの火に近いところに瓶を置いた。榊は少し猫舌。多めに淹れておいて冷ましておこう。
そうだ、コーヒー豆を出さなきゃ。
お部屋にとりにいかないと。すぐ戻れば大丈夫。でも念のため、お台所と部屋までの廊下の途中にあるドアは開け放しまま、私は自分の部屋に向かった。
部屋で、机の引き出しの奥に隠した袋を取り出した。香りが漏れない銀色のアルミ袋に入ってきっちり封がしてある。
これにも、榊を喜ばせるものが入っていると思うとうきうきする。
榊が気まぐれのようにデパ地下にいってこのコーヒー豆を買ったとき、普段地下なんて行かないからびっくりした。でも榊は初めてでもないような感じだった。
その夜、いれてもらったコーヒーがとても薫り高くて、私がおいしいと言った時に榊はうれしそうに言った。
「人類の、知恵の結晶だよ」
私が、うん、とうなづくと、榊はなんか照れ臭そうにした。私はそんな榊も大好きだ。
思えば、マヤにはそういう言葉を使う人が多かった。人類とか、世界とか。こないだの文化祭で助けてくれた元エスパー研所長の古市さんもよく言っていた。人類の英知。そうだ、先日の文化祭で榊が教えてくれた『積極的傾聴』だって、マーマレードだってそうだ。
私は、自分がそのいくつかを知っていることが誇らしい。
うきうきした気分が止まらない。まだお湯が沸くまでは時間がある。私は、早くあの香りを感じたくなって、早速私の机で、引き出しにあったはさみで開けた。
すると、記憶にある以上の鮮烈な香りが立ち上った。
私は誘われるように袋の切り口に顔を近づけて、すぅっと、香りを吸い込んだ。
香りは、記憶を呼び覚ます視覚よりも強烈なきっかけかもしれない。焙煎した豆のままだとこんな香りがするんだ。
記憶がよみがえる。
……幼い私の低い視界。見慣れたマヤのエスパー研。
ガラスに囲われた検証ルームの中。
え?
戸惑う私に、さらに記憶が襲い掛かった。
小さな私は検証ルームに入る前、あのマーマレードを塗ったパンをたべていた。おいしかった。
オレンジマーマレード。輝く太陽の色。
そう、さっきも見た。冷蔵庫の前で。
……さっき? いつ?
その色のイメージがさらになにかを呼び覚ました。止まらない。身体がよろけた。必死でこらえる。榊の、コーヒー豆がこぼれてしまう。
今日は、大事な日なんだ。榊を喜ばせてあげるんだ。
でも、そんな私は消えかかっていた。頭の中に、いつも押し込められていたことを呪うように、とめどなく記憶があふれ続ける。
検証ルームからガラス越しの外に、今より少し若い榊や古市さん、みんな。ルーム内の椅子に座る私。目の前のテーブルには一輪挿しの花瓶とお花。手にはマグカップ。ブラックが好きだった。飲むよりも、香りが好き。
エスパー研のみんなの声が検証ルーム内のスピーカー越しに聞こえた。
『ゆきかぜちゃん、がんばってね』『リラックスリラックス!』
私にとっては遊びみたいなものだ。彼らの声に潜む少し緊張した感じがなんかおかしい。
……私は不思議な感覚の中にいた。1秒が、1時間にも一瞬にも感じた。身体の感覚が薄くなり、自分が無限に広がる気がした。地球の裏側のことだって分かる。過去のことも、未来のことも。遠い宇宙の果てのことも。
マグカップをルーム内の机に置いた私は、複雑な動きで両手を動かして印のようなものを結んだ。何度も。目の前の花瓶に亀裂が入っていく。見ている皆の顔は笑顔だけど固い。
そう、私は、子どもの頃のことを途切れ途切れにしか思い出せない。人と比べたことはないから、そんなものだと思っていた。でも、友達に「ゆっきーは子どものころのことあんまり話さないね」と言われたことがある。違う、話すことがないだけだ。普段は。
こんなこともあったのに。忘れていた。
もっと思い出したい。私は何でもできる。
そうだ、お父さん、お母さん、どうして。榊は、なぜ。
そう思った瞬間。
ばちん、と脳の中になにかを途切らせる衝撃が走った。
もう邪魔なだけの、私の体が倒れる。手に持っていたコーヒー豆がざらっと床に広がる音が遠くに聞こえて、何も見えなくて、聞こえなくなった。
さっきまであんなに思い出せていたのに。
ずるいよ、そんなの。
意識が完全に暗転する前に思ったのは、その言葉だった。
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