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» 2012年09月21日 08時00分 UPDATE

「弱者」はなぜ救われないのか(3):年利300〜1000%でもお金を借りる――そんな時代もあった (1/3)

江戸時代にはさまざまな金貸しの実態があった。両替商、質屋、素金、日銭貸、烏金などどれも金貸し業であり、両替商は年利2割、質屋は年利48%といわれている。また年利300〜1000%という高金利にもかかわらず、当時の人はお金を借りていたという。

[増原義剛,Business Media 誠]

「弱者」はなぜ救われないのか:

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 この連載は書籍『「弱者」はなぜ救われないのか―貸金業法改正に見る政治の失敗―』(著・増原 義剛、出版社・きんざい)から抜粋、再編集したものです。

 ヤミ金の過酷な取り立てにより自殺や一家離散に追い込まれた人々が社会問題となり、これに呼応する形で生まれた改正貸金業法が2010年6月に施行されてから約2年が経ちました。当時、その法律立法に当事者として携わった元自民党・金融調査会小委員長である増原義剛氏が今その問題点を振り返り、誤った改正に至った経緯を明かした書籍になっています。


「弱者」はなぜ救われないのか・バックナンバー:

 →ヤミ金被害は、本当に減っているのか?(1)

 →「弱者保護」がさらなる弱者を生む、という構図(2)

 →第3回、本記事


人間の歴史とは切っても切れない貸金業

 金融の歴史をひも解くと、金融のそもそもの発祥はノンバンクだった。

 日本の古い唄で「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに」というものがある。本間様とは第二次大戦前、今の山形県酒田市、旧庄内藩を中心に約3000町歩(約3000ヘクタール)の土地を擁し、3000人ともされる小作人を抱えた本間一族のことである。当時日本一の大地主といわれたそうだ。これだけの土地を所有するに至った背景として、お金を貸し付け、返済ができなくなると担保としていた土地を取得することで徐々に所有地を拡大していったという。

 本間家初代、原光は1689(元禄2)年、現在の酒田市本町に「新潟屋」という屋号の問屋を開業し、瀬戸物、薬、小判、コメの取引などを営んだ。「本間家中興の祖」といわれている三代目の光丘は、「徳は得なり」との精神で利益の多くを公益に投資していくこともしている。

 今、盛んに企業の社会的責任(CSR)が求められるようになり、その考えは欧米から輸入されたものであるように思われている。だが、すでに日本でも独自のCSRが育っていたのだ。本間家は河川の改修工事、城の建設、海上警備、自然災害を防ぐ公共事業などを自前で次々と手掛けたという。

 その本間家はまた、ノンバンクの先駆けとなって多くの人に金を貸し、それによって多くの人が助けられたといわれている。当時、形だけで金のない殿さまより、庶民がどれほど本間家に憧れていたかを示した唄が「本間様」だ。

 江戸時代以前も当然のことながら、金を貸し付けるビジネスや習慣はあったとされ、特に資金量が豊富な仏教寺院などが貸し手になっていたという。だが、庶民の間ではどれほど活発だったのかはよく分かっていない。

 鎌倉時代、室町時代には、幕府によって頻繁に「徳政令」が発布され、借金の棒引きが行われていた実態がある。鎌倉時代には山僧や借上が貸し手となって武士や庶民に対する金融業を行っていたという。また室町時代は土倉や酒蔵が貸し手であった。こうした貸し手からの借金に苦しんだ人たちがたびたび一揆を起こして為政者に借金帳消しを迫ったことから、幕府は「徳政令」を出して庶民の不満を吸い上げていたという。

 そしてもちろん江戸時代にも、本間様ではないが、さまざまな金貸しの実態があった。両替商、質屋、素金、日銭貸、烏金などさまざまな名称でいわれるが、どれも金貸し業であり、両替商は年利2割、質屋は年利48%といわれる。庶民が当日、翌日返しなどに使った日銭、烏金などは100文借りて1日1文などということなので、年利に換算すると300%から1000%という高金利が取られていたが、短期の返済であれば利子も少なくて済むので、利用者も多かったという。つまり、人間の生活と切っても切れない貸金業は、かくも古くから日本で発達していたことが分かる。

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