あの歓声が忘れられない、相馬野馬追を見てきた相場英雄の時事日想(震災ルポ南相馬編)(2/4 ページ)

» 2012年08月23日 08時00分 公開
[相場英雄,Business Media 誠]

 それぞれの騎馬に掲げられている旗は、旧相馬中村藩の行政区である「郷」を現す。

 「野馬追は相馬の士農工商すべての力の結集であり、心であり、旗はその象徴」(原町観光協会/相馬野馬追ガイドブックより)

 相馬市と南相馬市のほか、全住民避難を強いられた飯舘村や浪江町、葛尾村、大熊町がこの郷に属している。各地の郷の旗印が通り過ぎるたび、見物客たちの間から拍手が沸き起こり、歓声が上がる。

 一通り行列が終わり、祭場地に騎馬武者がそろうと、野馬追の総大将である立谷秀清・相馬市長が武将姿、かつ武者の口調で進軍を指示。次いで野馬追の執行委員長である桜井勝延・南相馬市長が登壇し、「犠牲となった方々の鎮魂を願い、復興のシンボルとして開催できることを感謝したい」とやはり武者口調で告げた。

 一般のメディアで、桜井市長の言葉を知った向きも多いはず。だが、紙面では伝えられなかった言葉で祭場地にいる武者、そしてこれを観覧していた市民たちが奮い立つ場面があった。

 執行委員長である同市長は、南相馬市の小高区の「小高郷」、そして浪江町と葛尾村、双葉町、大熊町からなる「標葉(しねは)郷」からの武者たちの行列に対し、「天晴れであった」と讃えたのだ。

 事情を知らずに野馬追の会場にいたならば、同市長の掠れ気味の声の持つ意味が分からなかった。

 だが、5月に同市を訪れ、現地の方々の無念の一端を知ることになっただけに、同市長の言葉の持つ意味の重さが感じられた。そして同市長の言葉は、小高、標葉の武者たちの感激を巻き込みながら、広大な敷地とスタンドの観客席を一体化させたのだ。

 ジリジリと肌を焼くような炎天下、気温は36度近くに達していた。だが、私は自らの両腕に鳥肌が立ったことを今も鮮明に記憶している。

 現在、旧相馬中村藩の両地は相馬市や南相馬市、あるいは双葉町や大熊町などに分かれている。だが、野馬追の期間中は、全員が相馬の武者なのだ。これは決して大げさな表現ではなく、このイベントに接した際に感じた正直な感想だ。

 毎年、武者となる人、そしてそれを支える家族や親族が広大な祭地場に毎年当たり前に集い、武芸を披露してきた。これは明らかに生活の一部であり、住民たちの営みの中に組み込まれていたのだ。

 2年ぶりに従来の規模で開催された野馬追の持つ意味合いは、1人の観光客として観覧した私にもヒリヒリとした痛みとともに伝わってきた。

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