今回、五輪選手たちからもらった感動が単なる興奮だった人は、恐らく次の興奮を求めて、また別の強い刺激を追いかけるだろう。彼らは退屈が嫌いなのだ。
逆に、この感動を自分を作るためのものに変換しようと思った人は、何か挑戦の準備をしたり、何か習慣を始めたりするだろう。準備や習慣といったものは、元来、退屈なものである。しかし、この退屈ではあるが、中身を詰めていくプロセスこそが、よりよく生きることの本体である。それは、バートランド・ラッセルが「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた」 (『ラッセル幸福論』)と書いた通りである。
人は刺激ばかりを追っていると疲れる。退屈さの中の“耕し”がないと、心身は決して満ちてこない。ロマン・ロランは次のように警告する── 「魂の致命的な敵は、毎日の消耗である」 (『ジャン・クリストフ(一)』)と。
「水の心」を持って、自分が掲げた目的のもとに、日々の行動を積み重ねていくこと──文章で書けば、これもまた退屈な表現だが、これがなかなかできないのが私たち凡人なのだろう。しかし、考えてみれば、五輪という舞台に立ったアスリートたちは、みな、こうしてきたのだ。あらためて敬服する。祭りは終わった。されど、個々の人生は続く。
「どんなにゲームで活躍しようが、自分の中では、どこにも、何にも到達していないという感じです……人生と同じで、死ぬまでの間は通過点なんです」──三浦知良『カズ語録』
「一日は一年の縮図である。夜は冬、朝と夕方は春と秋、そして昼は夏である」──ヘンリー・ディビッド・ソロー『森の生活』
さて、今日一日、何をしようか。一日即一年、一日即一生である。引き続き行われるパラリンピック出場の選手のみなさんのご活躍も期待します。(村山昇)
Copyright (c) INSIGHT NOW! All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング