人は何のために、何を目標として生きるのか(3/3 ページ)

» 2012年08月01日 08時00分 公開
[寺西隆行,INSIGHT NOW!]
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具体的に何をすればいいのか

 自分視点で見た時も、結局は「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる」のが、幸せになるメンタリティだと思います。

 語り出すと長くなるので省略しますが、まったくそれまで関係のなかった人に対して支援する行為(寄付行為から、道端のお年寄りに手を差し伸べる行為すべて)も、自らのちょっとした幸福感を得るためという感情まですべて含めて「自分のため」というものに含まれるととらえると、究極的には「自分の幸せのために行っている」という結論に行きつきます。つまり、現象として「多くの支援をしている」と思われている人ほど、「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる」というメンタリティを強烈に持って行動しているのではないかな、と思います。

 ちょっとだけ脱線、かつ、ちょっと誤解を招きそうな例で恐縮ですが、何か甚大な災害が起きた時にのみ支援行為を起こそうとする人と、普段から「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる」を考え方として、態として持っている人とを比較して、どちらが社会の中で幸福を生み出すベクトルとなっているかというと、後者だと思うんです。「(生きるのは)幸せのため。ただし、社会の存在という制約条件下において」ということを強烈にとらえていますから。

※もちろん、甚大災害の時に支援する行為を否定するものではありません。

 小学生くらいの子どもに態を植えつけたいのであれば、言葉として「父ちゃんや母ちゃん、友達を幸せにできるような人間になれば、それだけで自分も幸せになるから、そのためにがんばんな」で十分だと思うんです。「途上国の人に思いをはせよう、その人たちに支援を」という言葉を小学生くらいの歳で投げかけるより、よっぽど。

 では、「がんばるって具体的には何をすれば、ぼくと、ぼくの好きな人に満足感を与えられるか?」という問いへの答えが、僕の座右の銘であり、ブログのタイトルにもしている「和顔愛語 先意承問」という言葉につまっています。

 自分が幸せになるために社会から支援を受けた時、無表情無関心あるいは怒っていたら、他者の幸せに寄り添うことはできませんよね(当然ですが)。だから「ありがとう」と発する。優しい心を持ち、優しい態度で接する。それが和顔愛語という言葉で表される態であり、教育視点では情の教育にあたることだととらえています。

 また、心だけで人は助けられません。人を助ける技量を身につけなければいけません。それが先意承問(「先」方の「意」思を「承」って「問」いかけを発せられる)という言葉で表される態であり、教育視点では「知」の教育にあたることだととらえています。

 発展した現代においては、問題解決も複雑に絡み合うことが増えているため、昔以上に「知」が必要です。Z会で働く自分の存在理由でもありますが、本当の意味での「学力」を自分の中で形成しないと、自らの幸せはつかめないと強烈に思っています。だって他者を支援できませんから。

 教育学者の安彦忠彦先生も仰っていますが、公教育の存在も学力形成が主であるべきなのです(Z会は、学校という場だけではどうしても身につけられない高度なレベルでの問題解決力を育成するための存在というのが僕の解釈です)。そしてもちろん情も必要です。アタリマエですが、自分に情がないと、他者からの情を引き出せませんから。

 そして公教育には、学校でしか身につかない「人格形成」も副の目的としてあるもの。一方で、副の目的に過ぎず、人格形成は家庭教育、そして地域教育、三位一体が必要条件であり、現代ではそれに加え、地域という場の存在が、地域を飛び出した場や、インターネットでつながることまで含めた、広義の場の中での教育が、人格形成において大切だと思っています。

 一番の教育問題を語るとしたならば、家庭教育と地域教育が機能していない現象が増え、結果として学校教育に必要以上の人格教育を求める現象を誘発し、結果として三位一体で形成される人格よりも低レベルの人格しか形成されない上に、学力形成(「受験で合格するための学力形成」ではない)がおざなりになっている点です。

 蛇足ですが、Z会で働く僕の顔は上記の通り、公教育ではどうしてもできない学力形成に寄与することに邁進(まいしん)する顔であり、これはこれで社会の一部分を創っている行為と思っています。一方で、教育人としての僕の顔は、家庭教育と地域教育が機能していない現象を直視し、「ぼくとぼくの好きな人のために」機能不全の解消に邁進するという時間の使い方をしています。

 妻の協力もあり、今のところ「ぼくとぼくの好きな人」に大きな教育問題は発生していませんが、今後、PTAなどを初めとした「公教育と家庭教育の接続点」がおかしなことになりそうだったら、間違いなく割って入ります。個人的な活動として、自治体を通じて行う教育の芽も出てきました。こうして24時間、「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」ことを単純にやっているだけなのです。

 「幸せのため。ただし、社会の存在という制約条件下において」

 →寺西隆行氏のバックナンバー

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