人は何のために、何を目標として生きるのか(2/3 ページ)

» 2012年08月01日 08時00分 公開
[寺西隆行,INSIGHT NOW!]
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幸せのため。ただし、社会の存在という制約条件下において

 人は何のために、何を目標として、なぜ生きるのか、と問われたら、答えは決まっています。「幸せのため」ですよね。僕の考え方や思想性、および行動の起点はすべてここにあります。

 となれば、誰の助けも不要、1人で、あるいは家族だけで、衣食住を含めた生活基盤まで全部まかなえる状態……極端に言えば、服や靴も自分で作れて、食材も自給自足して、自給自足のための土地も自分だけで持っていて、公共財の利用を一切断って、市民権を得ないでも幸せであれば、「別にいいんじゃない?」と思います。

 しかし、貨幣が流通する社会を待たずとも、原始から、物々交換による人との関わり、つまり社会は生まれているわけですから、現実的には、社会との関わりなくして人は幸せになれない、と言い切ることができます。

 社会と関わる以上、社会を動かす対象物、具体的には人になるわけですが、他者である人に対して満足を与え、その代わりに自分が満足を得る、これが幸せを得るための必要条件の1つであると考えます。

 もちろん、人に満足を与えずに、人から満足をもらえる状態を作れば、それも「別にいいんじゃない?」と思うわけですが、そんな状態が許されるのは、現実的には子どもだけ、それも子どもが今後、社会を動かす動力になるという共通認識がある社会下においてだけかと思います。

 経営学者のドラッカーも語ってます。「まともな社会なくして、まともな個人はありえない」と。自分の存在理由、自己実現など、個に落とし込んだ「自分の豊かさ」を追求しているように見える思考下においても、結局、社会の存在を切り離すことはできない、ということを端的に語った言葉だと思います。

 となると、「人は何を目標にして生きるか」の答えは、「幸せのため。ただし、社会の存在という制約条件下において」というのが、僕が現時点で得ている、最も近い解になります。

 そして、社会の存在をそれほどケアしなくても幸せをつかめる状態を作ったのであれば、それはそれで「別にいいんじゃない?」と思うのですが、一部の超スーパーな人間(例として分かりやすいのは、イチローのような人)以外の、我々のような一般人、凡人は、社会という制約条件を負荷に感じない、つまりは“社会とともに歩んでいる感”を自分の中で形成しない限り、幸せは得られないと思います。換言すれば、社会の中で受け入れられる自分を作らなければいけません。

 では、自らの幸せを鑑みつつ、他者にどうすれば受け入れられるかとなると、他者の幸せと自分の幸せをすりあわせていくことが必要になります。他者(Aさん)の中で「自分が存在することで他者(Aさん)が幸せになる」という心を醸成しないといけないわけです。

 これが、他者視点の心理で見た時の「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる」という言葉であり、その気持ちの中に入っていかないと(=関係性を構築しないと)、めぐりめぐって、自分の幸せ、あるいは、それを具体的に落とし込んだ達成したいと思う事柄を達成できませんよという、僕なりの解釈です。

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