これまで社会的問題を解決しようとすると、その多くは行政や慈善活動に頼るしかなかった。しかし、その解決策そのものを事業ととらえ、ビジネスモデルとして実現するソーシャル・ビジネスを提唱・実現してきたのが2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏だ。
ユヌス氏はバングラデシュのグラミン銀行創設者で、マイクロクレジット(少額融資)の創始者とされる。利益の最大化を目指すビジネスとは異なるビジネスモデルとして、ソーシャル・ビジネスを提唱。ソーシャル・ビジネスとは、特定の社会的目標を追求するために行われ、その目標を達成する間に総費用の回収を目指すというものである。
資本主義経済が行き詰まりを見せる今、ソーシャル・ビジネスはポスト資本主義の経済システムとして注目を集めているが、その創始者はどのようなことを考えているのだろうか。7月25日に行われた日本政策学校主催のユヌス氏の講演「ソーシャル・ビジネスが世界の経済を変える!」の内容を詳しくお伝えする。
ユヌス 私は米国の大学で博士号をとった後、同地で教鞭をとっていました。バングラデシュに戻ろうと思ったのは、さまざまな流血、惨事の後、1971年の終わりに独立を勝ち取ったからです。
当時、パキスタンは東パキスタンと西パキスタンの2つに分かれていました。東パキスタンが今のバングラデシュで、西パキスタンが今のパキスタンでした。この2つの国は1000マイル離れているために、なかなか仲良くなることができませんでした。さまざまな対立や抗争を経て、私たちは独立を勝ち取り、バングラデシュとなりました。
独立当時、私は米国にいたのですが、「母国に帰ろう」「国のために何かできるのではないか」と考えました。内乱のため、極度の貧困に母国は悩んでいて、道路も橋も家屋もすべて壊されていました。ゼロからまた立ち上がらなければいけなかったわけです。
「また、一から始めることができるのだ」と信じた私は、バングラデシュの大学に職を求めて、そこで教えるようになりました。若く、そして博士号を米国でとったばかりです。ですから、「国に帰れば、自分は何でもできるのではないか」と思っていました。博士号などをとると、ちょっと鼻が高くなって、傲慢さがどうしても生まれてしまいます。熱血教師として、私は国のために何かをしよう、助けることができるのではないかと思っていました。
帰ってから見たものは、まるで沈んでいくかのような国の荒廃でした。一番底にいたと思っていたところから、さらに沈んでいくような中、大きな飢饉が民衆を襲いました。食べ物が十分に行き渡らず、飢えで死んでしまう人たちが数多くいる。そういった状態を目の当たりにして、虚しくなりました。これまで自分が考えていたアイデアも知識も、そういったものの前に無力だったわけです。
そういう中で、自分の傲慢さは徐々に溶かされてきました。博士号をとって、いろんな理論を述べたところで、貧しい人にとっては何の意味もありません。食べ物を求め、飢えて死にかけている人の前では、そういうことは何の意味も持たないのです。
まるで飢餓のドキュメンタリーが目の前で繰り広げられるような光景だったわけです。そういう事実を見てしまうと、「何とかしなければいけない」という気持ちになります。その時に自分が思ったのは、まず近くの村に行って、苦しんでいる人たちに何ができるのか、人間として何かできないか、専門家でもなく、エコノミストでもなく、教授でもなく、単に一人の人間として何か力になれないかということです。「自分ができることは何か」「役に立つことは何か」は誰も教えてくれませんでしたが、とにかく「今日1日だけでも誰かの役に立ちたい」という思いでした。
そして、人と触れ合ううちに今まで知らなかったことや、教科書で教えてもらえなかったことを、気付かされました。徐々に人々や村のことを知るようになり、そこがまるで自分にとっての新しい大学のようになりました。1人の学生として、村の人たちから学んだのです。
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